仕事のついでに寄った古本市で、作家の自筆の文書を扱っているブースがあるのに出くわした。もともと作家や芸術家のサインやゆかりの品を集める趣味はなく、機会があってもむしろ遠ざけていたくらいだが、このサイトをはじめてから、こと『O嬢』関係になると、収集家心理に傾くことがある。そのせいか、いままで素通りしていたようなブースに引き寄せられるように足をとめ、期待するともなしに、ファイルをとりあげた。19世紀から20世紀の作家の断簡が ABC順に整然とファイリングされている。Aの欄をめくるまもなくドミニク・オリー Dominique Aury の自筆のカードが目にとまる。これまで彼女の筆跡を見たことはない。複数の作家の文を自筆稿の複製とともに集めたある本に彼女が寄稿しているという記載を何ヶ月か前に図書館のカタログで見たことがあるので、その本を引き出してみればそのうち彼女の筆跡にお目にかかれるくらいに思っていたのに、いきなり目の前に本物が出てきて驚いた。書いてあること自体はどうということもない。仕事用の連絡カードで、簡単なメモとリストだ。
これが図書館や記念館での展示だったら、しげしげと観察して済むのだろうが、問題は、ここは古書店で私が手にしているのは売り物だということだ。そして決して買えない値段ではない。「O嬢」の1954年初版本の良質の版が買える値段だが、ちょっとしたところで二人で食事するよりは安い。物は短いほんの事務的な走り書き。ためつすがめず眺めながら迷うが、こういうときは、一呼吸おいたほうがいいというR*** の勧めどおり他のブースを一回りする。結局戻ってきたときには決心が固まっていた。図書館のようなところに保存されていれば別だが、売物である以上どこかに行ってしまうもので、今手に入れておかない限り彼女の筆跡の実物を目にする機会はまずないだろうという思いがあった。NRFの事務局長だった彼女の書いたものなどガリマール書店に行けば山ほどあるだろうし、個人的に保存している作家も多いだろうけど、興味本位で見せてくださいとわざわざ頼みに行けるような筋合いのものでもない。それにドミニク・オリーという存在自体が作家としてメジャーのものでない以上こんな形で市場に出ることはむしろまれではないか?もう一つひっかかったのは、カタログの記載に彼女について、
AURY Dominique, Ecrivain français (Anne DESCLOS dite) Rochefort-sur-mer 1907 - ?
とあるだけで、Pauline Réageという言及がないことだ。死亡年を不明としているということは、この古本屋が彼女の伝記的事実に精通していないという可能性がある。目録は彼女の没年1998年以前に整理されたものだろうし、もしかしたら彼女がポリーヌ・レアージュであることが公になった1994年以前のものかもしれない。この値段は筆跡の主が『O嬢の物語』の著者であるということを知らずに付けられたもので、ポリーヌ・レアージュという情報がつくとこの値では済まないのではいかという推測も、決断を促した。店につくと脇めもふらずファイルを手にとり、店の人に希望を告げ、小切手を切り、2枚のカードを受け取った。
前置きが長くなったが、サイズ in 1/12と目録に記載されたその断簡は、正確には横×縦が13.5cm×10.5cmのカード1枚(a) と、 縦がその倍になった13.5cm×21cmのカード1枚(b)。bは中央で二つ折りになった跡がある。bのサイズの紙がもとで、それを二つ折りにして切ったものが a のサイズと言ったほうがいいかもしれない。a の大きさでちょうどA6が少し左右寸詰まりになった格好で、フランスのクラシックな大判の名刺の大きさ。左右の短い形の封筒に入れてちょうどいいようになっている。透かしも印刷されたレターヘッドなどもない、ただの白い(少し黄ばんだ)紙に、紺のインクでメモが書かれている。
カードa のほうは(19)56年6月10日の日付が冒頭右肩にあり、メモの内容が裏面に続き、最後にDominique Auryの署名がある。宛名はなくMonsieurという呼びかけがあるだけである。
内容を転写すれば、
le 10 juin 56 / Voici, Monsieur, les noms des / "partants" de Paris pour le / petit festival de la Guilde du / Livre. Je pense que nul / d'entre eux ne verra d'objection / à se voir nommé./ Croyez, je vous prie, à mes // sentiments les meilleurs / Dominique Aury
ざっと訳すと、「56年6月10日。ギルド・デュ・リーヴルへのミニ・フェスティヴァルへの参加に「乗り気」になっているパリ側の面々の名前をお知らせします。この中で自分の名前が挙げられることに反対する人は誰もいないと思います。敬具。ドミニク・オリー」
「ギルド・デュ・リーヴル」とは、オリーが顧問編集委員をしていたスイスのローザンヌの出版社の名前。たぶんギルド・デュ・リーヴルの関係者に当てたメモだと推測される。1956年というと、『O嬢の物語』が出版された年の2年後、実際に執筆された時期の5年後にあたる。
さてカードb は、上で言及された参加受諾者のリストで、20人の名前があげられている。有名なところでジャック・プレヴェール Jacques Prévert、ジャック・シャルドンヌ Jacques Chardonne、 マルセル・アルラン Marcel Arland に加え、本人ドミニク・オリーの名前が見える。おもて面だけに字が書かれており、リストの下半分では水かなにかでインクが滲んだあとがある。
上の2つの写真は、翌日R***と行ったレストランのテーブルでとったものだが、書体をもっと詳しくこの目で確認したい方は、スキャナーで読み込んだこちらの画像を見ていただきたい :
→ カードa
→ カードb
かなりの走り書きで、それにしても、決して読みやすい字ではない。古書店のカタログには最初の一文のみ転写してあり癖を見るのに多いに助かったが、その後のほうで、正確に読み取るのにかなり苦労した部分もあった。リストのほうは少し丁寧に書いてあるが、本文のほうは速記に近く省略してあるところもある(deのeなどはほとんど落ちている)。またフランス人にまま見られる n を u のように、m を w のようにする書き癖があり、o と n と u と v の区別がにわかにはつかない。特に本文6行目 à se voir ... の最後の単語が nomméに見えたのは翌日になってからだった。
この走り書きを見て、思い出すのは、ポリーヌ・レアージュが1968年に、『O嬢の物語』執筆のいきさつを回想して書いた「恋する娘」の次のような記述である。
「鉛筆を持った手は時間や部屋の明るさなど気にもかけずに紙の上を走っていた。娘は暗闇の中で愛する者に向かって語りかけるように書いていた。あたかも、あまりに長くおしとどめられていた愛の言葉がほとばしり出るように。生まれて初めて彼女は、何のためらいもなく、止まることも書き直すことも、削除することもなく、まるで自然に呼吸するように、夢をみるように書いていた。」
また「恋する娘」の別の場所の記述によれば、彼女は最初の一晩で冒頭部の例の2つのヴァージョン(このサイトの「『O嬢の物語』を読む」の解説で5回目あたりまで)を書き上げたとしている(「朝になると彼女はノートを畳み、そこには物語の二通りの冒頭部分が含まれていた」)。そしてそれは不特定多数の人間にではなく、J.ポーランに読ませるためだけに書かれたという。すると、そのときの筆跡は、上の業務連絡用の走り書きのものにかぎりなく近かったのではないか、そう想像しながらカードを改めて見ると感慨深いものがある。
『O嬢の物語』の自筆原稿がどんなものであったか、それがどんな運命をたどったかについては、 John de St. JorreがThe Good Ship Venus : the Erotic Voyage of the Olympia Press (London: Hutchinson, Random House Group, Ltd., 1994 and Pimlico, 1996) (未見だが、邦訳は青木日出夫氏の訳で『オリンピア・プレス物語』の題で河出書房新社から出版されている)の中で報告しているのが誰にとっても唯一無二の情報源だが、それによると、
- 1980年代末にオリーの所有する『O嬢の物語』の自筆原稿はポヴェールを介してスイスの金持ちのコレクターに売られた。
- 売却されたのは自筆原稿の他に、ポーランがコメント・推敲指示を記したタイプ原稿、 同書に関するオリーとポーランの間の書簡、オリーとポヴェールそれぞれによる(売却に際して新たに書き起こされた)同書成立事情に関する説明の手紙。
- 自筆原稿は最初ポーランのもとにあったが、ポーランの遺言によりその死後オリーに返却されていた。ポヴェール自身も自筆原稿を見たのは、この売却仲介のときがはじめてであった。
- ポヴェールによると、「恋する娘」の記述どおり、原稿は、鉛筆で小中学生の使う小型の習字練習用のノートに書かれていた。ノートは1ダースほどあった。
ということである。そしてこのコレクターはこの原稿や手紙を手に入れてまもなくして急病で亡くなったというが、その後、このコレクションがどうなったかについては、同書では触れられていない。遺族が処分したとすれば、同好のコレクターに高値でわたったと想像される。
1980年代末にスイスのコレクターの手に渡ったのは『O嬢の物語』の原稿だけだろうか。『ロワッシーへの帰還』はもともと初稿では本編にくっついていたものだから、これが含まれているのは確かだが、「恋する娘」の原稿がどこにいったかが気になる。というのは1年ほど前にGoogleで検索中に、アメリカのどこかの大学の新着図書目録の中に、ポリーヌ・レアージュ「恋する娘」の手書き原稿という記載を見たような気がしてならないのだ。まさかという気があって、2,3度ほど見ながらやり過ごしたのだが、後になってもう一度本格的にチェックしようと思ったらもう検索にひっかからなくなっていた。保存もしていずキャッシュでも出てこなくなったので、後の祭りであるが、確かに「『恋する娘』の手書き原稿」と書いてあったような気がするのだ。今私にとっての大きな謎の一つである。
いつかそのうち、『O嬢の物語』か「恋する娘」の原稿を目にする機会があったらなと漠然と夢みることがある。秘密主義のコレクターの所有になってしまったのなら、その人の存命中は引き出しの奥に深く仕舞い込まれて二度と日の目を見ることがないかもしれない。もしかしたら、何かの機会に出会うかもしれない。もし自筆原稿とやらを見せられたら、恐れ入って眺めるしかないのは確かだが、メモの切れ端とはいえ実際のオリーの筆跡を解読しながらためつすがめつ眺めた経験を今得た以上は、その時になって、少なくともその筆跡が本物らしいものか似てもにつかないものか判断したり、筆致がどう違うか観察することができるはずだ。そんな夢を持たせつづけてくれるという意味でも、この2枚の紙きれは、ささやかな楽しみの源になっている。
2003年7月9日、Autel記
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