ウラディミール・ナボコフ Vladimir Nabokov の『ロリータ Lolita』は次のような文で始まる
Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta : the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.
Lolita、私の命の光、私の肉の炎。私の罪、私の魂。Lo-lee-ta −−舌の先端が口蓋を3度弾きながら下り、三度目には歯にあたる。Lo. Lee. Ta.
Lolitaに続く l そして s や t、 p の連続(light -life - loins / sin - soul / tip - tongue - taking - trip - steps - tap / tip - trip - steps - palate - tap)は翻訳ではうまく再現しようもないが、ここでは、作者が Lo-li-taという音の響きのみならず、その音を自分の口、舌で愛撫するようにいつくしんでいたようすがわかる。更に細かく見れば、英語の t の調音点が l のそれよりも前で、音としてはsの混ざるような音だということも想像できる。そして最初の音節 lo の l では舌先が少しそり気味で、次の li の l よりも後ろ側にあたって英語独特のくぐもったような音になっていることも。そのためここの"Lolita"は、日本語やフランス語で発音したときとはまったく異なり、舌先が口蓋を上の歯のほうまで次第に前進(降下)する3ステップの旅となっている。この3歩の旅を著者は何度繰り返したろうか、その度にどのような思いをもって。ここで記述されているようにゆっくりと調音し、舌が口蓋にあたりながら移動していく感覚を意識してみると、Lolitaという語がナボコフに呼び起こす欲望をいくらか追体験したような気になれる。ここでは言葉は口と舌というすぐれて性的な器官と結びついた官能性を帯びている。
純粋に記号学的な観点からすれば語における意味と音の関係は無縁のものというのが常識だとしても、意味をとりまく美的その他の感情的な作用を含むイメージの総体と音のイメージとはもちろんまったく無関係のものではない。この、広い意味での「意味」に対する音の関係はそれでもそれほど無視されていることがらではないが(例えば有名なランボーの「母音」)、第3の要素、発音という行為の肉体的・運動的側面(器官とその運動)との関係を意識的に述べる作家は少ない。そう思っているところにしばらく前、フランソワ・チェン François Cheng の Le Dialogue, Une passion pour la langue française (Paris, Desclée de Brouwer, 2002)(『対話 -- フランス語への愛』)の中で、やはり発音の運動的側面と意味との関わりについての彼の個人的感覚に関する記述と、それが文学的創作をもたらすという例にぶつかった。この本はチェンが昨年(2002年)アカデミーフランセーズ会員に選出されたのを記念するような形で出された小冊子だが、この中で彼は、例えば次のように述べる :
個人的には私は "goût" という語に愛着がある。というのもそれを発音するとき喉もとで舌や口蓋の粘膜を使い、かすかに働き出すその粘膜が口の中に水分を呼び寄せるからだ (p. 57)。
また別のところでは、6、7個の単語(arbre, rocher et pierre, entre, source, nuage, nuit)についてそれぞれの発音で彼が持つ運動的イメージを述べ、それに触発されて創作した詩を添えている。そこでの記述では発音の運動的側面は、肉体的な側面は捨象され、聴覚的に及ぼす運動のイメージと渾然となった抽象的なものとして提示されている。例えば彼によるとarbre(木)という語では:
まず上る(-AR), そして上ったところでしばし留まる(-B), 最後に心地よい影を作りながら下へ広がっていく(BRE).木が成長過程の中でさらに別の音(-F)の連続が聞こえこれが、噴き上がり(fuse),繁り(foisonne), 裂け(se fend), 消えていく(se fond)ものを暗示する(p. 42)。
ここで(-F)が出てくるのはフランス語の R の音との類似による。ここで語られている感覚は個人的なものだ。先ほどの goût の例とは違い、arで上っていく運動を感じことについて簡単に多くの賛成は得られないだろう。しかし、重要なのは、個人の感覚の中で言葉の音がしかと運動の感覚と結びつきそれが言葉の「意味」と切り離せない関係を結んでいることだ。しばしば肉感的なレベルで。
上の二つの例が、外国語を母語同様に身につけ自分の創作活動の言語とした人たちのものであるのは偶然ではないように私には思える。母語のように自明でない相手と関係を結ぼうとするとき、その関係がほんとうに全面的なものならば、口や舌という最も形而下的、動物的な器官が言語と結ぶ関係が意識に上ってこざるを得なくなる。そしてある言葉を愛するということは口や舌でもって愛撫することであり、ある言葉が分かることのうちには、その愛撫の快感(や不快感)が不可欠の要素として含まれているのではないだろうか。
外国語をできるだけ怠けて早く習得しようといろいろな学習法や体験談を昔たくさん読んだが、愛撫し、響きの官能を(耳を通して)口で味わうことを積極的に不可欠の要素として述べたものは、今にして思うと、なかった。口唇的快楽は幼児的なもの、知的な意味の本質に関わりないものとして無視されているのだろうか。しかし私個人にとっては、例えば、bonheur という語の発音が肉体を通して感覚に及ぼすもの−−せまくはじける/bo/がねっとりした/n/を介して、緊張と弛緩がおいしく曖昧にバランスを保った/oe/に移り、それが長く保たれながら/R/によって名残り惜しげに身体の中に飲み込まれていく充足感をまったく無視したとしたら、この言葉の「しあわせさ」の理解に何か大事なものが欠けるのではないかとまで思えてならない。
どうしてこんな本質的なことを二の次三の次にして−−ならだまだいいが、むしろ無視して−−枝葉末節に走った語学学習法とやらを吹聴する向きが書物でもネットでも多いのだろうと改めて思っていたところに、kanjikan氏のサイト「フランスの島」で、ブレーズ・サンドラルス Blaise Cendrarsを論じた文章がこんなふうに始まるのに出会った :
サンドラルスの文章は好きだった。いかにもbourlinguerといった感じのブールと撥音ながらにごるブから始まってウールとrに つながる豊かなouの音、rが余韻を持ちながら長く続いて、それからlinランという明るい音。最後にguerゲとこれもケではなくゲ とにごる柔らかさ。いかにも船で旅をして大波に揉まれるような音のつながり。大波の中を揺られ揺られて旅に出よう。
ここにもやはり意を同じくする者がいた。そして単語の喚起するイメージが音、発音の運動的側面と連動して捉えられているこの文はのびやかで美しい。初めて耳にするこの単語は私にとって、この文を読んだ瞬間から、生き生きと鮮やかな姿で立ち現われ、一生忘れられないものになる。
文章や歌を聴くとき耳もまた口の快楽に加勢する。口の快楽が耳の快楽に加勢するというべきか。女優やアナウンサーや歌手のしゃべる言葉、歌うときの言葉の響きが、その口の動き、舌の動きをダイレクトに感じさせることがある。こちらの口の頭の中のポジションを刺激し、彼女たちの口や舌が、自分の口に直結しているかのように。そのとき聴くことはほとんど性的快感になる。彼女たちとというよりも、彼女たちを通して肉体をまとった言葉そのものと交わっているような。
書かれた文章でも口に出して、あるいは頭の中で口を刺激しながら読むとき、そのリズムによって、舌の快感を刺激するものがある。読んでいるうちいつの間に頭の中に響きが聞こえ、自分の口の仮想的な動きがシンクロナイズしているとき、読んでいることを忘れ対話しているような気になる。そのとき、目で見て辞書を引いて読んでいたときには見えなかった行間の意味が浮かびあがってくる。入り組んでいたように見えた構文が自然な語りの流れに沿っていることがわかる。逆にいうと文学テキストを読んでいて、音の側面を忘れているとき、それがどう口に出して読まれるか想像できないときには、理解において何かが欠けているに違いない。Je vous aime と書かれた簡単なフレーズが、その文脈の中でどんな調子で発せられうるかいくつもの可能性を音として思い浮かべた上で選択された解釈と、言葉づらだけで「私はあなたを愛しています」と置き換えただけの解釈の間には天と地ほどの差がある。
外国文学の専門家で通っていて、その言語の音をなおざりにしている人に出会うことがある。訛りがあるとか発音が不正確という問題ではなく、居直っている人もいる。音のような低級なことはいわば女子供や外国語屋にまかせておけばいいと暗に言わんばかりに、自分は発音のほうは苦手だが解釈や翻訳だけは自分は専門だと公言する人たちもいる。そういう人で、文献調査にすぐれいろいろと有益な注釈をつけてくれる人もいるだろう。が、文学テキストやパーソナルな文章に関する限り、私は、耳の喜び、舌の快楽を知らない人の解釈や翻訳を最後のところは信じない。
Autel, le 17 avril 2003
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