希覯書収集は、エロチック文学−−というよりこの場合、少々古い語彙だが「艶書」と言ったほうがしっくりくるか−−好きの人間に一度は訪れる誘惑だ。特にインターネットのない時代、テキストを読む唯一の手段は実物を目にすることであり、そうした書物は限定出版だったり地下出版だったりして入手困難なのだからそれも無理からぬことだ。私自身はというと、最初のころ収集趣味に心がちらりと動いたこともあるにはあったが、20代の前半という割合早い時期、ある人の膨大な蔵書を見せられて、これは平和な人生のためには首をつっこまないほうがいい世界だと悟り、以来禁欲を肝に銘じている(私の父の歳よりもかなり上のその人−−もう故人になられた−−は職業的な物書で艶書に限らずオールラウンドの蔵書家であったのだが、風俗関係だけでも離に作った小さな倉庫一杯の本があり、驚く私に対し、自分は艶書を専門に集めているわけではないのでこれで済んでいるが、××さん−−私の知らない名−−のようなマニアはこの手の本だけで自分の数倍のコレクションがあると言って、さらに追い討ちをかけた)。そういうわけで、『O嬢の物語』の諸版でさえ、古書店でみかけても素通りしてしまったことが多く、ごく基本的な物しか手元にないので、こうしたサイトを作った今、書誌解説の部分で少しハンディキャップができている。が、コレクションはしないとはいえ、たまにはそのときの気分で面白いと思って手に入れた本が、たいそうな希覯書とは言えないが、珍しほうに属するものであることはある。そうした方面の貧弱な蔵書の中で、私にとっては格別に印象深い2冊がある。
- ブラントーム『ダーム・ギャラント = 艶婦伝=』(上下巻)、小西茂也訳、河出書房、1950年
- ミュッセ『ガミアニ』、吉野春樹訳、紫書房、1951年
ブラントーム Brantôme (本名 Pierre de Bourdeille 1540頃 - 1614) の『ダーム・ギャラント Les dames galantes』は、『O嬢の物語』の訳者でもある鈴木豊氏の訳のものが現在標準的に読まれている訳だろう。ネットでは、Kanjikan氏のサイトフランスの島で、4話分(進行中?)フランス語の原文を引きながらの洒落た解説が読める。さて、この1950年の小西訳=河出書房版だが、何といっても驚くのは、その造本である。限定2千冊(そう少ない部数ではない)と奥付に表記してある濃い緑色のかっちりしたハードカバーの上下2冊の版は、背表紙に、
BRANTOME / LES / DAMES GALANTES / traduit / par / S. Konishi / librairie Kawadé
と金箔で銘が打たれ、表紙のタイトル表記も同様に金箔による。中の紙質こそよくはないが、洒落た挿絵をふんだんに使った丁寧な仕上がりである。昭和25年の出版をめぐる事情は、なおまだ終戦直後の物資不足に悩まされていたと言ってよいだろう。当時の普通の本を手にとるとそれは明らかだ(下にとりあげる『ガミアニ』の造本が典型的にそうだ)。そうした時代的制約が、この装丁からは想像もできない。まず、そんな状況下で、こんな本、こんな17世紀の艶書を出すために恐ろしいほどのエネルギーをそそいだであろう編集者に頭が下がる。
中の訳文を読むと、これだけの努力を編集者がしたくなるのもわかる。この版で800ページになろうとする、逸話の果てしない連続を、文語を基調としながら、その向こうに年老いた貴人の口語による語りを彷彿とさせるような、私の世代にはもはや不可能な文体で訳していく。訳注も丁寧で巻末注のほか、「やんごとない大公(フィリップ2世)」「さる美しい御身分高い奥方(コンデ公夫人カトリーヌ)」のように原文を事実で補う注をどんどん本文のわきにつけていく(括弧になっているところはルビ式に傍注になっている)。こういう洒脱な訳を目の当たりにしては、このサイトで『O嬢の物語』についてやっているような細かい翻訳談義など虚しく思われてくる。ごちゃごちゃ評するより、このサイトにふさわしい→鞭打ち趣味にに関する逸話の条の訳文を引いておこう。
国会図書館のカタログによると、小西訳はこの河出書房の特装版より2年前の昭和23年(新樹社)に一度すでに出版されていることがわかる。 小西茂也(1909−1955)というフランス文学者・翻訳者のことを私は主に、この本を通してとバルザックの訳者としてしか知らない。辰野隆門下であることはこの本の次のような素敵な献辞でわかる−−「ラルース小辞典 / ゴーロワズリーの項に曰く / 賦蘭吐夢(ぶらんとむ)に豪朗和刷(ごうらうわずり)あり / されば / ブラントームの大和型 / 辰野隆先生に本訳書を献ず / 龍落子」。また、永井荷風の友人で、荷風を昭和22年から23年まで居候させていたという。ネットで検索できた『断腸亭日乗』の昭和22年1月8日の条に曰く−−「小西氏の家水道なく炊畢盟漱共に吹きさらしの井戸端にてこれをなす困苦言ふべからず。加ふるにこの日朝より電気来らず。電気あんかも用ふる事能はず。終日夜具の中にうづくまりて読書す。電気は去ル六日より二日置きならでは使用すること能はざる由。」この翻訳が終戦直後のどのような生活状況の下に進んでいたかということをまさに証言するものだろう。それに加え、この本を手にしたときから直感的に感じ、昭和23年初版という日付を知った今ますます深くなってきた疑問は、これが果たして戦後の何年かの間に訳されたものだろうかということである。逆に言えば、出版の見通しの全くない戦時中こつこつと進められた訳ではないのかと思えてならない。分量からみても、訳注の丁寧さからみても、じっくりと長い時間を必要とした訳のように思われるのだ。どなたかこの辺りの文学界事情に詳しいかたに教えていただきたいものだが、戦時中であれ戦後であれ、重苦しいあるいは騒然とした世の中をよそに「こんな本」に情熱を注いだ人間がいたというのはなにかほっとするとともに元気づけられる。
ミュッセ作(とされている)『ガミアニ Gamiani』の邦訳は現在ネット上で購入できる山本泰三訳があり、調べてみると何度か訳されている(山口椿氏の「超訳」を謳ったものもある)が、昭和26年出版の紫書房の吉野春樹訳が(公然と出版されたものでは)初訳だろう。いろいろな点で上の小西訳の『ダーム・ギャラント』と対照的なのだが、共通しているのはこの時代の艶本にかける人々の情熱を痛切に感じさせる点である。
装丁・紙質ともにこの時代の娯楽書籍として順当に極めて粗悪である。が、この本の特筆すべきなのは、邦訳と原典の写真複製が一冊になっていることである。外国ポルノ文学の当時の訳書にままあったことなのかどうかは分からないが重宝なことである。和書として見たときの奥付けの前ページが、横書き左綴じと見なしてこの本を開いたときの中扉になっていて、以下のような表記のある原本の扉が複製されている :
A.D.M./ GAMIANI / ou / DEUX NUITS D'EXCES / FAC-SIMILE DU / TEXTE ORIGINAL / orne[sic] des 12 lithographies de / DVÉRIA & GRÉDON / 1833 - PARIS - 1903 / aux dépens d'un amateur
この扉を信じれば、1833年の版の1903年のファクシミリ版がさらに1951年の邦訳版にそのまま複製されていることになるが、これに続く本文の部分は1833年当時の印刷とは思えない。また12枚のリトグラフのいずれも収められていない。
翻訳はというと、ブラントームの小西訳と対照的に、極めて急いで仕上げた様子である。訳の正確さについては言わぬが花だが、ただし日本語の文体には当時の翻訳艶本に共通の一定の魅力がある。重訳ではなく、また巻末の書誌的解説もしっかりしている。訳文の見本としてこれも→鞭打ちの部分を引用しておこう。訳者の吉野春樹という名は検索してもこの本の訳者という以上のデータは得られない。仮名ということは十分に考えられる。
引用した場所には出てこないがこの本をめくってすぐに気づくのは、ところどろこに、最も長いところでは10行以上にわたって、訳されていない原文のが混じることである。たとえばこんなふうな :
「...一頭の巨大な犬メドールが隠れ場から出て来て、伯爵夫人の上に飛びかかり de lécher ardemment un clitoris その飛び出した先端は、真赤になっていて焔のように燃えていた。」
この本で原語が残っているのにはあきらかに2とおりのケースがある。一つは戦前の本にままあったように、検閲を憚って露骨な部分の訳を避けているというもの。明らかにもう一とおりのケースは、訳せなかった部分を原語、原文のまま残してあるというものである。私の手元の版には、この原文のままになっているところで、元の持ち主が、鉛筆で丁寧にひとつひとつの単語に訳を書き込んである。辞書から見当違いの語義を選んであるところもあり、celaにまで「それは」と訳を書いてある按配だから、原文のまま長く残されている部分がきちんと読めたどうか人ごとながら心配になるが、それでもこの努力には頭も下がる。艶書の翻訳は、出すほうも読む方も今とは比べ物にならない情熱に燃えていた時代だったようだ。
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