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2003年11月30日
犬か猫か

R***が彼女の「手帳」に書いているように、私は犬よりも猫が好きだ。「どちらか」というよりも、きっぱりとそうだと言ったほうがいい。猫は何度も飼ったことがあるが、犬は飼ったことがない。これからも飼うことはないだろう。嫌悪感という大げさなものではないが、犬の忠実さのありかたを見ていると何か居心地の悪いものを感じる。

BDSMのSの人間には犬派の無条件の忠実さを好むの当然ながら普通だ。SM小説やエッセーには牝犬と主人という比喩が常套的である。その点から言うと、R***が「奴隷失格」だとすると、私は「主人失格」ということになる。が、Sの男の中にも猫の自由、独立への性向を愛する向きが少数だがいるという論を、英語圏のBDSMサイトで読んだことがある。そのカテゴリーの人間の喜びの源は、そういう猫的存在を御することにあるという。そのとき私が大きくうなずいたのは言うまでもない。今、改めてその論を確認しようとしたが残念ながら検索の手をつくしても見つからない(もっとも趣旨は十全に理解しているので特に再読する必要もないのだが、ただそういう論が確かに他に存在するということは記録にとどめておきたかった)。

単にMとして従属する女性に出会うのはそれほど難しいことではない。難しいのは、その従属を支える基盤としての独立・自由の重要性を理解し、それを維持でき、その矛盾の中での戯れを生きることのできる女性に出会うことである。こんなややこしい精神の操作を必要とする「猫派」でいるより「犬派」だったほうが世の中が簡単になってよかったと思わないではない。が、忠実になることもできる「猫」を側に置くなんていう贅沢を味わったらなかなか転向するわけにはいかない。

そういえば、Elizabeth McNeill の 9 1/2 Weeks (1978)が映画となり日本でも「ナインハーフ」として原題をそのままカタカナにして公開される前の、邦訳書のタイトルは『飼われた猫のように:ある愛の記憶』(藤井かよ訳、早川書房、1979)だった。この作品とは異な縁があって原著の発売直後に出会い、英語で読んだが、そのあと邦訳のタイトルを知ったときには、巧みな訳だと感心した。男は小説の中で3匹猫を飼っている。私はあの作品に出てくる男ほどキザにもマメにもなれないが、小説を熱中して読み、そこで展開されている世界に親近感をもった。すでにそのとき私が「猫派」だったのは確かなようだ。

Autel 記

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