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2003年12月1日
9 1/2 Weeks

前回、猫派云々について書いたとき、エリザベス・マクニールの『ナインハーフ』(Elizabeth McNeill, 9 1/2 Weeks)のことを思い出したので、改めてパラパラとめくってみた。

R***と私は、出会う前に同じ本を買っているというケースが多く、この本の場合、私がオリジナルのほうを、R***が翻訳(藤井かよ訳、ハヤカワ文庫)のほうを持っていた。私の手持ちの英語版は、ペーパーバック版(Berkley)で出版データをみると1979年になっている。邦訳が最初『飼われた猫のように』という題で出版されたのがこの年だから、今から思い起こせば私がこの年日本で英語版を手に入れたときにはすでに邦訳が出ていたかもしれないし、もしかしたら英語版が輸入されたのはそのためかもしれないが、そのときは気づかず、辞書を引きながら読むはめになった。おかげでニューヨークの当時の風俗語を覚える機会になはなった。

OraclutieImageこのペーパーバック版に直感的に惹かれたのは、実はその表紙のデザインによる。手持ちの本はかなりくたびれていて、写真でよく見えるかどうか心もとないが、白い表紙に女性の手が浮き彫りになっていて、手首をこれも浮き彫りの紫色のスカーフが縛っている。表紙に浮き彫りを用いることは自体はペーバーバックでもそう珍しくないが、この場合、表紙から直感的に受けたイメージと中を読んでのそれがぴったり一致したので、この版を手にとるたびにいつも心地よい思いがする。

1986年になって映画化されたとき意気込んで見にいったが、ミッキー・ロークもキム・ベイシンジャーも私が原作から受けた登場人物のイメージからはやや動物的な野生味が強すぎ、演出のほうは、原作の洗練されたゲームの部分が、これみよがしに官能美を強調したクローズアップによって代用されていて、がっかりしたが、まあ、それはそれでいいかもしれない。封切りの時に見た後、一度だけフランスのテレビで見たが、最初よりは楽しめた。もう一度見てみたい気がする。

作者の Elizabeth McNeill について改めて調べてみたが、匿名という以外は、何も分かっていないようだ。これ以外の作品もない。出版時は体験に基づいた小説ということで宣伝されたらしい。一方、ハヤカワ文庫版で訳者の藤井かよ氏は「訳者には原文の感触から、なぜかさして若くない男性の作者の影がこの作品に見えてならない」とする。いずれにせよ何の手がかりもない。それに、『O嬢の物語』や『イマージュ』といった作品についての憶測の歴史が示すように、文体による性別の推測は誤りに導くことが多いので、何か具体的な手がかりに出あうまでは、あれこれ詮索しても意味がない。

私は女性の美を破壊することに執着したり、女性の品位を下落させることだけを自己目的にしたSMがどうも苦手だ。女性に対する本能的な嫌悪感が剥き出しになった、あるいは何かそれに結びつくような幼児体験を背後に想像させるようなSのありかたを見るとぞっとする。私の中ではデフォルメは相手の美を、逸脱はお互いの官能をいずれも最大限に引き出すためのもの以外ではありえない。この小説の真の作者が男性か女性かは別として、官能に対するこだわりや女性の美に対する愛が、この小説の中では私にはいつも好ましい。次に引くのは、そういう意味で、この作品の中から特に惹かれた一節(藤井氏の端正な訳文で)。あなたの目や手のせいでこんなことが起きましたなどと女性に書かれたら男性冥利につきる。

わたしは縄跳びをしたこともないし、公園でジョギングしたこともない。それでも、体重は1ポンドも増えも減りもしなかった。つまり、これはわたしが大人になってからずっと維持してきた同じ身体だった。それが、どうだろう、それと知らぬ間に変わってきていた。しなやかに、優美に、洗練され、崇められていた。肘の曲りにつづく肉には、空色の静脈が現れ、やわらかく絶妙な不透明な肌に溶けこんでいた。絹のような腹部は腰骨に向かって、なだらかに傾斜していた。わたしの胴体(トルソ)につながっている上腕は、若い少女のヴィナスの丘の中心のように、デリケートな襞をつくっていた。膝から上につづく腿の内側の狭い卵型のくぼみは、ゆるやかに平らになり、長い間かかって成熟した、起伏のあるやわらかで白くて限りなく感じやすく、この世で最も精巧な構造へと移っていった...。 (ハヤカワ文庫版、74ページ)


Autel 記

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