段落が変る。前段で、さるぐつわの効用が説明されたが、「その晩は逆に、それを用いることは問題にならなかった。」彼らはOが泣き叫ぶのを聞きたかったからである。それもできるだけ早く。今「泣き叫ぶ」としておいた hurler (澁澤訳「泣きわめく」、鈴木訳「うめき声をあげる」)のかなり強い語感をぴったりとカバーする日本語がないので少し補足する。人間が主語の場合「pousser des cris prolongés et violoents 長く激しい叫び声をあげる (Petit Robert)」で、この言葉の強さが分かるが、さらには本来的には動物(狼や犬など)の遠吠えの声を指すものである。フランス人女性が緊急時や手放しの怒りなどで発する叫び声を耳にするとき、日本語でよく言う金切り声などというなまやさしいものではない、喉の奥からではなく肺の底から押し出されるようなその音は、まさに野生動物を思いださせることがあるが、男たちがOから引き出したいのはそうした全身からの叫び声である。
そして男たちはそれに成功する。L'orgueil qu'elle mit à résiter et à se taire ne dura pas longtemps. 「彼女は意地でも頑張って、声をもらすまいと努めたが、それも長くは続かなかった」とする澁澤訳は日本語としてなめらかで申し分ないが、ここの段落が、Oと男たちの間の精神と肉体の上での権力と権力の争い(いまのアングロサクソン系のSM愛好家の一部なら power exchange とでも呼ぶだろう)だということをより明確にするために、野暮を承知で、原文は逐語的には「(叫び声をあげまいとして)彼女がよびさまそうとする自尊心は長く持ちこたえることができなかった」となってるということを指摘しておきたい。Oという存在を魅力的にしているこの「orgueil 自尊心、誇り」と、それを裏切るものとしての肉体との間の相克は、観点を変えながらこの物語を貫いていく。
そして、この文を受けて Ils l'entendirent même supplier qu'on détachât qu'on arrêtât un instant, un seul. 「放してください、ちょっと、ほんのちょっとでいいからやめてください、と彼女は哀願しさえした(澁澤訳)」「男たちは、彼女がいましめを解いてちょうだい、ほんの一瞬、ちょっとだけでいいから手を休めてちょうだいと哀願する声すら耳にした(鈴木訳)」間接話法を直接話法的に訳すのは澁澤訳が特に多用すしている技法で、鈴木訳もこれを踏襲しているが、原文の中にも例の「視点のかすかなゆれ」があり、 qu'on détachât qu'on arrêtât un instant, un seul と短くたたみかけるような文体、特に最後に間接話法の節の中としては破格の un instant, un seul はまさに背後に「ちょっと、ほんのちょっとでいいから」という直接の声を鮮やかに想起させる。その意味で特に、ここの部分の澁澤訳の切迫感のある文体は原文をよく写している。ただし、その声を「男たちは耳にした」という原文の大枠組は保持したほうがよいだろう。というのもこの陳述は、男たちがOからこの声を引きだし聞くことが出来た、すなわち、この「権力の争い」に男たちが「勝った」ということを、男たちの側に立って描写するものであるからである。
「pour échapper aux morsures des lanières 皮紐の攻撃をのがれようとして(澁澤訳)」Oは半狂乱になって身をよじる。ここでいう革紐とは具体的には何だろうか。鈴木訳の「革紐が体に食い込むのを避けようとして」を見るとちょっと混乱しそうだが、前の段落(この解説では前々回の第8回)で、男たちがOに対し、これから使われる鞭を説明する部分があったのを思い出していただきたい。そのうち2つめの鞭として「それぞれの先端に結び目を作ってある6本の長い革紐でできた鞭 le fouet de cuir ... fait de six lanières terminées par un noeud」というのがあった。今、ここで単に革紐(lanières 複数形になっているのに注意)と記述されているのは、この房鞭である。日本語になりにくい morsures にも一言。これは、動詞 mordre(噛む)から派生した名詞で、原義は「動物などに噛まれること、噛まれた傷痕」である。ここでは鞭の房が肌に噛み付くように襲ってくることを指している。前の説明では、革紐の先はそれぞれ結び目になっている。そうした6本の革紐がまるで生き物のように肌に容赦なく噛み付いていくる様子を皮膚感覚のレベルで想起させる語である。hurler のところでも触れたが、Oが鞭打たれるこの場面は、こうした語彙によって必然的に、動物的な様相を呈してくる。そして館に連れ込まれて以来Oが、アクションの能動的な主語となり、動き出すのはこの段落が初めてであるが、それはいずれも拷問を受ける肉体の示すダイナミックな反応である(hurler, supplier, se tordre, tournoyer)。
手を上に吊られた姿勢でほとんど回転するようにOが身をよじるため、腹 le ventre、 腿の前面 le devant des cuisses、脇腹 le côté が、腰 les reins と同じような目にあう。そこで男たちはOのウエスト la taille に縄を回し柱に固定するが、縄を強く締めたため、上半身 le torse が一方に傾くことになる、そのため片方の臀部 la croupe をもう片方より突き出させることになる。そしてこの瞬間から打撃は、故意にでなければ、他の場所へ迷い出ることがなくなる(つまり片方の臀部だけが集中的に鞭の洗礼を受ける。)
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