拷問の叙述から、少し距離をおいたコメントに変わる(原文では段落は変わらない)。
Etant donné la manière dont son amant l'avait livrée, O aurait pu songer que faire appel à sa pitié était le meilleur moyen pour qu'il redoublât de cruauté tant il prenait plaisir à lui arracher ou à lui faire arracher ces indubitables temoignages de son pouvoir.
例によってあえて直訳風の日本語をあたえると。
「恋人が彼女をここへ運んできたやりかたからして、彼にあわれみを乞うことは、彼がその残酷さを倍加するためのもっとも確実な道だとOは考えめぐらせることができたはずだ。それほど彼はOから自分の権力についての疑う余地のない証拠をもぎとることに喜びを見出していた。」
まずOを「連れてくる」(emmener, conduire)という代わりに、荷物などを配達するときに使うlivrerという語が使われているが、前にルネが彼女に対し fournirということばをつかっていたのを思い出していただきたい(「読む」では第4回目)。
「...ということにOは考えをめぐらせることもできたはずだ」、「Oにしてもこんなことを思いつくことができたはずだ(鈴木訳)」、「...とも考えられたはずであろう(澁澤訳)」など、どうやっても日本語ではまどろっこしいような表現になるが、これは文法の教科書でおなじみの条件法過去(過去の事実に反する仮定、英文法の用語だと仮定法過去)というやつである。つまりこの直前の部分で、Oが拷問に負けて自尊心をまげ、やめてほしいと哀願した記述を受けている。このあたりの関係を強調するなら、訳としては踏み込みすぎだが、「...ということにOは気づくべきだった」という日本語を考えればすっきりする。ともかくも、ルネは暴力により、自分が彼女に対してもっている力、力関係の証(前回で触れた「権力のゲーム」という側面を強調するために、語は固いが「権力」という語も使ってみる)をOの精神的屈服という形でもぎとる(arracher)ことに成功し、とりわけOの精神的屈服の外的表現から快楽を得る。
ここでまたみられる作者の視点のゆらぎについて一言。ルネの心理状態を描写するかに見えるここの一節は、この小説のスタイルからみるとやや異質である。すでに見たように、この小説で作者は三人称的記述による事実に対する俯瞰的な視点を基本に、時おり微妙にOの中に出たり入ったりはするが、O以外の他の人間の心理に入りこむことはない。それから考えるとこの一節はやや奇妙であるが、これはルネの心理状態というよりも、俯瞰的視点をもつ作者がルネの態度について観察したことを彼らの間の権力ゲームのメカニズムを強調するために入れた描写、あるいはこのメカニズムを後になって理解するはずのOが思い返して認識したことというように解したほうがよさそうだ。
そのルネの冷酷さを強調するのが次の文で、そこでは、ルネは、3つの鞭(革紐の房鞭、乗馬鞭、縄の鞭(garcette))のうち(「読む」第8回参照」)、革紐の房鞭のほうが体に跡を残すことがずっと少なく、したがって一番たっぷりと使えることができて便利である旨彼女に告げたあげくに、他の男たちにもっぱらこの鞭だけを使ってくれと頼む(Il demanda que l'on n'employât plus que celui-là)。他の2つの鞭による鞭打ち描写は明示的には出てこないが、文脈を総合すると3つを試して上での判断である。
鞭打ちをどのくらい続けて行うかに関して、男たちはOに対し、すでに次のように説明していた。「ひと息つかせてやることもあるだろう。しかし呼吸が元に戻ったら、結果に応じてまた打ち始めるだろう。判定は、叫び声や涙によってではなく、肌に生々しい跡や容易には消えない跡が鞭で多少とも作られているかどうかで下される。 鞭の効果をこうやって判定する方法は、正確なばかりでなく、犠牲者が呻き声を 誇張して同情心を誘う試みを無意味にする」(「読む」第9回参照)。それを思い出せば、この体に跡を残すことのいちばん少ない鞭を選択することの意味はもっとはっきりする。
この小説の中で、ルネの人格の存在感はかなり薄い。ロワッシーの中では、「他人を介して自分の力を引き出させる」という上の記述にもかかわらず、むしろ恋人を他の男たちに送り届け自分は初心者として補助的な位置にとどまり、Oと二人きりの時には恋人同志の関係に戻っている。ロワッシーから帰ったあとはステファン卿の代理人としてしかふるまっていない。この部分はそのルネが、他の男たちに先んじてイニシャチブを発揮するほとんど唯一の場所である。澁澤訳は、このルネのイニシャチブを強調する訳をつけている(「彼は、この皮の鞭しか使わないようにしよう、と主張した」)。
この前後に限ってきちんとよめばこれが最も論理的な読みかただが、小説全体のなかでのルネの性格の弱さに対する思い込みからか、あるいは読むものがここでのルネほど冷酷になれないからか、この部分が誤読される傾向にあるようだ。鈴木訳は「革の鞭はもう使わないようにしよう」という原文の意味とはまったく逆の日本語を与えているし、ジャカンの映画では、Oをいたわって、体に傷がつきすぎるから乗馬鞭は止めろと他の男を制止する場面にすりかわっている。
そしてここで「女性が男性と共通に持つ部分でしか女性を好まない (qui n'aimait les femmes dans ce ce qu'elles ont de commun avec les hommes)」男なるものが登場する。作者得意の婉曲語法の一つだ。男が気をそそれたのは、「ウェストより下に回された縄に縛られて目の前に張り出し、(鞭を)逃れようとすればするほど差し出されてくる臀部 (cette croupe offerte qui se tendait sous la corde au-dessous de la taille et ne s'offrait que davantage en voulant se derober)」。この臀の部分の記述する情景には、尻マニアでなくても、男ならだれもがそそられるはず。(男から見た)鞭打ちの視覚的醍醐味がいかんなく表現されている。この小説には男性の目からの好色な情景描写は多くないが、ここの部分その数少ない中の一つであるといえる。
鞭打ちが止み、男はその部分をある程度の難儀とともに(non sans mal)貫通しながら、この通路(passage)をもっと使いやすく(commode)すべきだと感想を述べ、具体的な方法を講ずるべき皆が合意する。
このアナルセックスの部分に関しては、上の臀の動きの視覚的記述の部分を除けば澁澤訳は申し分なく、長島訳にはなぜか省略があり、鈴木訳には残念ながら読み違えが多い。
← 10. Il n'était pas question de l'utiliser...
→ 12. Quand on détacha la jeune femme ...
今回とりあげた部分にある現行版の誤植について一言。
Histoire d'Oの版本のテキストは厳密には実は2種ある。初版のあと1975年に「著者による校訂版 texte revu et corrigé par l'auteur」というのが出ており、誤植の訂正やほんのわずかな語の修正がここで行われている。内容に関する手入れはない。が、この校訂版出版時に新たな誤植がいくつか発生している。現在流布するすべての版(現在の時点で一応決定版となっている2001年刊のLGF Le Livre de poche版もふくめて)は75年版のテキストをそっくり踏襲しており、初版にない誤植を含むものとなっている。
ここの例で言えば、初版本の 「ce qu'on obtenait presque aussitôt avec la corde mouillée de la garcette ...(鞭打ちの跡は)ガルセットの濡れた綱ならほとんどあっという間に得られてしまう...」 というくだりで、75年版以降の刊本では aussitôtが脱落して、意味がとおらなくなっている。
© Autel & R***
oraclutie@free.fr