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AutelのURAノート ログ 2
MSG 33 - 63 (2003年11月23日 - 2004年1月30日)
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MSG: 33 on Sun 23 Nov 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: 恋の歌、猫の声

公事私事多忙でしばらく書き込みを怠っていて、気がついてみたらすでに3か月以上。R***には 「kanjian さんと一緒に消えちゃったみたい」とか「kanjikan - Autel同一人物説がでるんじゃない」とからかわれる始末。kanjikanさんとともにちょっとした内輪のミニ俳句ブームが去って時宜を逸した気もするが、前回中断したところを書き込みの再開のスプリングボードに。

うらやまし思ひ切るとき猫の恋

俳句にはすっかりうとく、作者の越智越人のことも芭蕉の弟子という以外のことはほとんど知らないが、20年以上も前に出会ったこの句は鮮やかに印象に残っている。「猫の恋」という奇抜な語彙(俳句の約束ごとからするとそうではないらしいが)、平易な語彙ですぐにも分かったような気にさせると同時に、どういうことなんだろう?と頭をひねらせる文言。ネットで改めて調べてみると、人気のある句らしい。解説はたとえば、こちら

この俳句を初めてに目にしたのは折口信夫の文章の中だが、そこで展開される文学史論の中で、鍵ともいえる役割を彼がこの句にあたえ、それが意表をつくほどのものだったので、印象がいっそう鮮やかに残っている。「恋の座」(雑誌初出1946年、同名の単行本出版が1949年。中公文庫版『折口信夫全集』第10巻所集、p.366 - 394)と題する文章で、著者自身「恋愛が、日本叙情文学の主座を占めてくる過程が、幾分でも書ければという望みを持つ小論」というものだが、冒頭がこの句から始まり、思わぬほうへ展開していく。背景知識の乏しい私にはきちんと紹介できる力量はなく、ニュアンスに富んだ折口の文をとんでもないほうへ誤解しているのではないかという恐れがないでもないが、乱暴にシェーマ化すると次のようなものである。

日本の伝統において「恋愛」の主題が言葉になって出てくるとき、それはもともと「真に愛の衷情を訴えるもの」「恋の成就を咒する」もの、「魂ごひ」、そして必然的に叙情詩であった。が、時代を下り千載・新古今の時代になって、そこに知的で客観的叙述(に感情を投影させたもの)、叙事詩的方向がおおいかぶさって、その基層を隠してしまう。そのことによって「うた」は「文学」あるいは「美」となるが、そこからは「生活」が失われてしまう(「生活」いうとどろくさい感じだが、今のはやりなら 「生 la vie」とでもいうところだろう)。芭蕉がその俳句の中で「恋愛」を主題とするとき最初にとったのは後者のいわゆる古典的方向。そして芭蕉は、これを極めはしたが、古典的なものを乗り越えていこうとめざした「俳諧的」な態度はこの主題にも及んできて、新たな可能性を探し求める。そしてその途上で彼が探しているものを発見させるきっかけになったものがこの越人の句であり、それゆえに芭蕉はこの句を絶賛したというのである(「尠くとも芭蕉は其の時の旅途で、越人の此句に逢著するまで、或時期の間、こうした恋の句の境地の、いまだ表現に上がらぬものを持って苦しんで居たに違いない。其れが、越人の句を見るに及んで、此だと思わず叫びそうになった...」)。

上のレジュメは乱暴に演繹的になっているが、折口の論のすすめかたは逆で、この句と、それに対する芭蕉の評価の記録についての文献の問題からはじまり、いきつもどりしながらの語りに付き合っているうちに、日本文学の一般的な問題へとあれよあれよという間に論が広がっていき驚かされる。細かい問題についても少しづつ立ち止まり、留保をつけたり少しだけ枝道に出たり本道へまた戻ったりしながら、上のような大胆なパースペクティヴが提示されている。「隠者」という観念や「連歌」という形式の問題についてもこの問題にからめて論じられている。改めて読みながら、この骨太さ、究極の割り切りのよさに、クリステヴァを最初読んだときのことが思いだされた。

ぼろが出ないうち下手な紹介はこの辺に。かぐら川さんのような専門家に笑われなければいいが。折口のこうした説に対する現在の評価も私にはまったくわからない。ただ、検索をかけたところネット上ではどこにも言及がないので、これで興味をもったり、興味を新たにしてくれる人がいれば、そして、そのうちネットでももっとまともに取り上げてくれる人がいればという望みとともに−−解説書や研究論文などを見れば詳しいことはたくさんが分かるのだろうけど、私のようにこういうことがらについてはネットがもっぱらの情報源というむきも増えていると思う−−自分へのメモがわりに、幸にも手元にまだあった中央文庫版を引きながら(引用文は勝手に全部新字体、新仮名に改めてある)。


MSG: 34 on Sun 23 Nov 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: 扉・窓税

松本さんによるアルフォンス・アレ『パンセ』 Alphonse Allais, Les Pensés (1987 )の紹介を読む。この手のものはニヤニヤしながら一人で読むのが楽しく、翻訳して紹介するのは面倒なもの。その労をいとわず読みやすい日本語にしてくれた松本さんに感謝。

松本さんは、自分の掲示板で訳注嫌いの意見を紹介しやんわり釘をさした上での解説掲載で、いつもながらの配慮深さ(そう言えばドミニク・オリーも訳注嫌いだった)。配慮深くない私なりの言い方でいえば、ジャンルにもよるが、訳注でわかるほうがましなものものある。言葉遊びなどは日本語の地口にしてうまく行っている例もまれにないことはないが、訳者がまったく別ものに作り変え、その自己満足の駄作に付き合わされるはめになることも多い。てだれの翻訳で別物を見せられるよりも、野暮を承知の訳注で分かったような気になるほうが、まだいいと思うこともしばしば。翻訳者はオリジナルをブラックボックスの中にとじこめる全権の代表者でなく、ちょっとばかり先に詳しく読んだ読者の一人だという考えがあってもよい。どちらがいいかは、ジャンル、発表媒体、社会的商業的文脈にもよるだろう。

アレの『パンセ』から松本さんがひく、

Un impôt qui doit rentrer facilement, c'est celui sur les portes et fenêtres.

なども2重の意味で訳注なしでは日本語になりにくいもの。

地方の古い街並みを観光していると、窓が極端に少ない家や窓を塗り込めてつぶした家にでくわし、歴史好きの人が、窓にかかる税金を節約するためと解説してくれたことが何度かあった。革命後に建物のドアと窓に税金を課した時期があったという。改めて調べてみると実際の課税通知の見本とともに説明してくれるページがあって、それによると1798年にはじまり1925年まで続いた(1917年には名目的に些少額のみ徴収となり有名無実化)措置だという。アレ(1854-1905)の同時代人にとっては自明の税だったことになる。それを踏まえた上で、rentrerに「(入ってくるべき)金が入ってくる」(cf. rentable)と通常の「(入り口などから物理的に)入る」という意味をかけていることになる。facilementには、複雑な計算などなしに有無を言わさず取りたてられていく、このきわめて不人気な税に対する気持ちもたぶんこめられているだろう。

紹介してもらった例で、松本さんの訳注がなければしばらく首をひねっていただろうというのがいろいろあった。恩返しになるかわからないが、野暮を承知で松本さんが訳注を付してないところをあえて補足してみました。



MSG: 35 on Sat 29 Nov 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: 恋するサド

最近あまりじっくり見ることのなかった書店の文芸新刊コーナーをひさしぶりにR***と散歩していると、ガリマール書店のNRFシリーズの装丁だが、大判(LPレコードのジャケットよりやや小ぶり)の薄い本が並べられているのが目をひいた。よく見るとサドの名が表紙に。めくると初公開のサドの手紙のファクシミリ版だ。サドの専門家なら何がなんでも欲しいところだろう。が、私にはいまのところサドの伝記的事実の細かいところにまで立ち入る余裕はない。こういうのに手をつけるときりがないとわかっているので、一般的な概説書を読むくらいにとどめて、あとは敬して近寄らず。が、何度も、手にとったり置いたりを繰り返してよっぽと逡巡していたのがありありだったのだろう。横で見ていた R***がいつの間に買ってきて数日後にプレゼントしてくれた。

D.A.F DE SADE
Anne-Prospère de Launay
«L'Amour de Sade»
Lettres retrouvées et éditées par Pierre Leroy
Avant-propos de Philippe Sollers


宣伝によると、11月20日に発売されたばかりとのこと。

いつもながらてぎわのよいソレルスの序文(そういえばソレルスはサドの未公開の手紙なるものを自分で書いてまことしやかに刊行するという荒業をやったことがあった。これについては松本さんの紹介がある)に続く本の主要部分は3通の手紙のファクシミリ版とその転写、そしてこの手紙を発見した愛書家のピエール・ルロワによる解説。公開されることを念頭に書かれた往復書簡集のようなものは別だが、だいたいにおいて古文書として出てくる手紙というのは事務的なやりとりが多く、文脈に精通していないと無味乾燥な情報でしかないことが多い。この場合も、サドの伝記に生半可な知識しかない私にはとっては、手紙からだけではたいしたことは読み取れなかったが、30ページ余のルロワの解説を読み進むうちに、これらの手紙の書かれた状況がどんどんと鮮明となるとともに、この発見がサドの伝記解釈に与えるインパクトが分かってきて、文字どおり「巻置く能わざる」になり、一気に読まされてしまった。サドの専門家がそのうち詳しく紹介してくれるだろうが、読後感のフレッシュなうちに、読書メモを書き留めておくことにする(ネットで見ると書評は、Une lettre inédite, L'amour de Sade. Jérôme Garcin、Le Nouvel Observateur 11月13日版が出ているので、興味あるかたはそれも併せて読んでいただきたい。でも何故 une ? Des lettres のはずだが)。

複製されている手紙は3通

1. D.A.F.サドから叔父のジャック・フランソワ・ポール・アルドンス Jacques-François-Paul Aldonse へ 1771年6月15日、パリ
2. D.A.F.サドと義妹のアンヌ・プロスペール・ド・ロネーからサド家の公証人ファージュ Fageへ。1771年11月あるいは12月、ラ・コスト
3. D.A.F サドから下男のカルトロン Carteron へ、1772年12月、ミオラン城塞から

ただしルロワが所有する手紙は他にもあるようで、彼はこれらの未発表の手紙を引用し、他の伝記的研究によって明らかになっている資料を活用して実証的に非常に堅実な解説を行っている。手紙の書かれた71年〜72年は妻の妹アンヌ・プロスペールのラ・コスト城滞在から、マルセイユ事件、アンヌ・プロスペールとのイタリア逃亡、サヴォワでの逮捕・幽閉に至る、サドの人生の中でも最も波乱の多い期間であるが、ルロワの記述は、この時期を中心にしながらも、本意ではなかった23歳のときの結婚から、晩年の獄中生活までを描いており、簡潔なサドの伝記としても読める。そしてその中で、サドの運命にとってアンヌ・プロスペールの占める中心的な役割が語られ、憶測に基づいていた通説が手紙という新資料と、他の事実による補強によって覆されていく。アンヌ・プロスペル

OraclutieImage 例えば、サドがアンヌ・プロスペールに初めて会ったのは、彼女が修道院から出てきてラ・コストに来たときのことであり、彼女の処女性、そしてその修道院生活という宗教的イメージが侵犯の対象として彼の欲望を呼び覚ましたという説明が、実証的な研究書においても現在通説になっているが、これがまず第1の手紙によって覆される。アンヌ・プロスペール来城の数ヶ月前にサドが叔父に対してここで打ち明けた内容から読み取れる事実は、実はサドとアンヌ・プロスペールの間の愛はすでに2年前に遡ること、当時17歳の彼女が修道院に預けられたのはそれが原因であったこと、彼女が修道院を出てラ・コストに滞在しに来るのは二人の間の愛に動機づけられた計画的なものだということである。ルロワはこの事実を紹介し、二人の間にすでに性的関係が恐らくあったのであり、処女性云々どころではない、そうした解釈は実証的というよりもクロソウスキーの哲学的解釈に影響を受けたものだと指摘する。

OraclutieImage第2の手紙は、サド家の財産管理を行っていた公証人へのもので、生活上に必要なものを調達するよう、細々と指示するサドの口述をアンヌ・プロスペールが代筆したものであり、彼女も手紙の末尾に自分自身の指示をつけくわえている。この手紙や他の傍証から浮かびあがってくるアンヌ・プロスペールの姿は、ラ・コスト城の生活の中で、城主の妻である姉をさしおいてすでに、実質的なパートナーとしてふるまう女性のそれである。

第3の手紙は、サドがサヴォワで逮捕され、アンヌ・プロスペールと引き離され、城塞に閉じ込められたあとに、自分の書いた物、そしてなにより彼女の私物や手紙をどうにかして確保しようとして必死に下男に指示するものである。嫁入り前の娘の名に傷がつくことを絶対に避けようとするモントルイユ夫人との間に激しい手紙争奪戦があったこと、そしてサドの運命が彼女の手におちていく経緯をルロワはこれにからめて記述する。

ルロワは言う。恋をしているサドの姿は伝記作家からいつも懐疑の目で見られてきた。彼のそうした姿を禁じている神話に反するからだ、と。ルロワの指摘するとおり、そしてこれは通説にも反しないが、サドのアンヌ・プロスペールへとの関係は、モントルイユ夫人を決定的に敵にしたということを介して、サドが自由な生活を失い、その代わりに獄に繋がれながら書く人間となる運命の展開に決定的な役割を果たした。

スキャンダルをうまく封じ込め結婚をおぜん立てする母親の努力にもかかわらず、アンヌ・プロスペールは、結局、修道院に戻り1779年に28歳で天然痘で死ぬ。獄中のサドはそれを知らされず、その7年後になっても妻への手紙で彼女の運命を気遣っているが、そのようすは哀れである。

サドがその後半生彼女を唯一愛しつづけた、というようなナイーブな結論はサドを読むものならもちろんだれしもが躊躇するだろう。ルロワがサドの後半生における彼女への思慕を強調するのも、彼がこの手紙の発見者ということから割り引いて考えなければならぬかもしれない。伝記作者というのは誰しもが、自分の発見した事実に、より大きな重要性を付与したがるものだ。彼のこの発見は、サドの全体像の中での評価をめぐって、専門家の間の議論を呼ぶことになろう。がいずれにせよ、サドの人生に登場する多くの女性の中で、死ぬまでそして獄中でもずっと持ち続けたのは、父母のものを別にすれば、彼女の肖像であったというのは事実のようだ。

彼女の肖像はこのサドの所持のものも含めて一つも残っていないという。このページ中に引用した画像は、第1の手紙中のサドの署名と、第2の手紙中に記された彼女の署名 Mlle Launay。アンヌ・プロスペル ド・ローネー嬢

この小さな読書メモを、素敵なプレゼントをしてくれたR***に感謝をこめて。



MSG: 36 on Tue 02 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: フランス掲示板 ☆☆☆

フランスの官能小説の翻訳に関する話題を求めてネット散策中に、「つややかにフランス語」という新しいサイトを発見(これについてはOraclutie掲示板のほうで)。執筆者は別名で別のサイトの管理人でもあるということで覗きにいく。

「フランス掲示板 kehjiban.com」という、日本人のためのフランス関係情報の紹介、交換のためのいたれりつくせりのよくできた総合的サイトだ。時事ネタを素材にした「三面記事でフランス語」はとてもためになる。どうも管理人のtemjinusさんと私は感性が似ているのか、新聞や雑誌で気になってあれこれの掲示板で取り上げようかなと思いながら、そのままになってしまった記事が、ちゃんと解説されている。書くか書くまいか思いわずらうより、これからはここを読みにいこう。なんだか D*j*-vu 感がないわけではないが、管理人の日記や写真もなかなか楽しめる。色気のある画像もある。文学のコーナーのないのだけがちょっと残念。

8月の半ばごろ発足したらしい。こんなサイトできてるなんて、情報収集不足というか今日まで気づかなかった。でも、だれも教えてくれなかったなあ...ぶつぶつ。これからちょくちょく見にいくようにしよう。

新しいサイトの発足を遅ればせながら祝し、末永い発展を祈って。


MSG: 37 on Fri 05 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: ことばたち

フランス掲示板)の「三面記事でフランス語」に刺激されて、やはり、前に「言葉の味方 Parti pris des mots」(松本さんからのパクリ)で書いていたようなメモが書きたくなってきた。こちらもフランス語が主になるが、temjinusさんのほうのは時事性中心なのに対し、こちらは「ことば」中心でソースの新旧は問わないから、競合することもないだろう。

もともとこの Ura Note はかぐら川さんの「めぐり逢うことばたち」)に触発されて作ったもの。めぐり逢ったことばや情報、作品にについてちょこちょこと書いていきたかったのに、いつのまに重めの文が多くなってしまっていたから、最初の動機に戻ることになる。「言葉の味方」で書いていたような解説風のスタイルをやめにして、今はやりの表現でいえばWeblog風に(主題いはウェッブで出会ったものだけに限らないが)自分のための軽いメモ的なもので流したいと思っている。フランス時事解説も基本的に「フランス掲示板」やその他のサイトに任せることにする。


MSG: 38 on Fri 05 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: secret de Polichinelle

例によって、スターターとして以前書いたもののリサイクルから。投稿日は5月15日。解説風のくどいスタイルになっているが、



secret de Polichinelle

トゥールーズの娼婦連続殺人事件の握り潰し、SMパーティスーキャンダルへの元市長の関与云々を報道するテレビのニュースの中で、「トゥールーズではそれは "secret de Polichinelle" 」という言い方をしていた。secret de Polichinelle、 端的に言えば「公然の秘密」。 Polichinelle はポリシネルよりもプルチネッラと言ったほうがたぶん馴染みが深いが、イタリア(ナポリ)の(人形)喜劇の道化。

ドミニク・オリーが『O嬢の物語』の実際に著者であることが公にされるのは1994年の『ニューヨーカー』誌の中でであるが、アメリカでのその「スクープ」について報じるル・モンド紙(1994年7月26日)は、少し皮肉めかして、フランスではすでに secret de Polichinelle だったと書く。そしてル・モンド紙自身、うっかりと1990年のある記事で堂々と書いてしまったことがあると明らかにする。

L'identité de Pauline Réage était devenue un tel secret de Polichinelle que le Monde avait écrit le 23 novembre 1990 sans crainte, dans un article sur Gallimard : " Dominique Aury, auteur du sulfureux roman érotique Histoire d'O ".

口コミでささやかれていくがメディアには書かれない、secret de Polichinelle がフランスには多い(最大級の例だったのがミッテランの愛人問題だろう)。ディナーでの格好の話題になるし、その種の秘密を共有しているということがある種の特権意識をくすぐるからでもあるようだ。政治スキャンダルや犯罪に関してメディアが目をつぶっているのはよくないし、知識人・芸術家の世界をマフィア的ネットワークが支配するのも不健全な傾向だが、こと色事の世界についていえば、「ウィンクしながら知り合いに言うのはいいが、公の場で話したり、ことさらに書きたてたりするのは野暮の骨頂」という伝統的な美意識は−−世界中のメディアでその対極のアングロサクソン的流儀が浸透していく中ではあるが−−悪くない。

(舌足らずなので少し追加すれば、トゥールーズで例の元市長について"secret de Polichinelle" になっているとニュースで報道していたのは、事件に関与していたということではなくて、事件に関与しているという疑いで現在捜査の対象になっているということ。本人の言い分によれば、ポルノフィルムのテレビ放送に対する規制を強めようとする CSA (Conseil Superieur de l'Audiovisuel 視聴覚高等議会)の最近の動きを妨害するために、会長である自分が政治陰謀に狙われていると。)


再録にあたっての追記。
9月17日に、CSA会長、トゥールーズ元市長であるドミニク・ボディスDominique Baudis 氏と直接の現場証人として彼を告発していた元売春婦の対決が法廷で行われ、その中で後者は、実際に彼に会ったことはない、彼を陥れる策謀に荷担するよう自分は操られていた旨の爆弾発言を行い、基本的にボディス氏の無実が証明されることになった。上の文が書きっぱなしになっていたので、この追記のためにも、ここで再録する意味はある。


MSG: 39 on Sat 06 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Journée sans Nicolas

ラジオのニュースで、ある野党議員の皮肉めいたセリフとして紹介されているのを聞いた。Il faudrait une journée sans Nicolas 「ニコラなしデーが必要だ」というような表現だったと思う。Nicolas とは現内務大臣の ニコラ・サルコジ Nicolas Sarkozy 氏を指している。就任以来大張切りの活躍で、ここ最近あちこちのマスコミにでずっぱり(surmédiatisé)のSarkozy氏に対するあてこすりで、Journée sans voiture (ノーカーデー)のような言い回しに加え、la Saint Nicolas (聖ニコラウスの日)をかけているはず。どこかのラジオから流れているのを小耳にはさんだだけで、局名も議員の名前も今となっては確認できす。検索にもこのしゃれの聞いた句はヒットしない。最初に「野党議員の」と書いたがそれも実は定かではない。与党議員のメディア向け発言ということはまずないが、内輪の冗談ならありかもと思わせる空気は現在なきにしもあらず。この人をさかなにした別のジョークはOraclutie掲示板のほうですでに紹介した

実際に今日12月6日は聖ニコラウスの日。聖ニコラウスは周知のように「サンタクロース」の原形。ヨーロッパの多くの地方の伝統では12月24日や25日ではなく、これがむしろ贈りもの日。というより施し、慈善全般の日。偶然にも今年は、恒例の France 2の24時間(+α)チャリティー番組にあたる。聖ニコラウスからサンタクロースへの変遷については→こちらのサイトが簡潔に説明してある(もっと詳しく「学術的な」説明をみつけたのだが、テロ事件で有名な宗教団体のサイト内にあって、リンクをはるのにちょっと勇気がいる。「聖ニコラウス」と「サンタクロース」で検索をかけるとトップに出る)。


MSG: 40 on Sat 06 Dec 2003(CET) by Autel
Subject: Sarkozy contre l'interdiction du porno

ホスト国のいやしくも内務大臣に含むところあってをおちょっくてばかりいるようなぐあいになってしまったが(外国人の滞在条件を厳しくしくした張本人だからそれもゆえなしではない)、上をアップした後に出てきた最新ニュースでこんなのはいい。

http://infos.tetu.com/lire/5757
Nicolas Sarkozy contre l'interdiction du porno
France - Dans un entretien accordé à l'hebdomadaire VSD, le ministre de l'Intérieur Nicolas Sarkozy, qui se dit "issu d'une génération qui a grandi avec la télévision et qui l'apprécie", se prononce "contre (l')interdiction (des films pornographiques) sur les chaînes payantes. Chacun est assez grand et libre pour choisir de s'abonner ou pas".
par Judith Silberfeld le 05/12/03

有料チャンネルTVといえどもポルノ映画(XXX級)は禁止すべきという意見に対して、サルコジ氏、その必要はなしという見解を述べたもの。

「大人なんだから...(自分の力や判断で)できる être assez grand pour」という表現は、"tu es assez grand pour ..." "je suis assez grand pour ..."というような形でよくでくわす。


MSG: 41 on Sun 07 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: J'ai googlé...

「ぐーぐる」という動詞を最近目にする。自分から積極的には使わないが、不快な造語ではない。個人的に嫌だなと思う新語、造語は他にたくさんある。ピンとひらめいたことがあって、ぐーぐってみると、やはりありました。

J'ai googlé ...

語の性質上、完了形の表現が多いのは当然のこと。こうなるとドイツ語で過去分詞はゲグーグルト(不定形はgooglen)となるのかということで、見てみると、

gegooglt

出てくる、出てくる。結局何語でも人間考えることはみな同じらしい。

規則的に語の作れるエスペラント語では?と思い、活用表(といっても1行で済んでしまう)をぐーぐって、一人称の主語の過去の文 mi googlis をでっちあげ「問い合わせ」(データベース関係で使われるこの用語も考えてみれば日本語としては変な響きだ)してみたが、ヒットしなかった。

その代わり googlisで調べていて次のラテン語の格言がよくとりざたされているのに出会う。

In Googlis non est, ergo non est.
Googleになし、ゆえに、存在せず。

前々から思っていたが、この傾向かなり怖いです。


MSG: 42 on Mon 08 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: La nouvelle inquisition

この数年間の間にフランスの雰囲気がある部分で息苦しくなってきたと感じる。2002年の選挙で治安強化を旗印にした保守派が全面的に政権を握り、さまざまな面で治安、規制を強化しているのは原因のひとつだが、言論の面でいうともっと別の大きな流れがある。

まず、宗教的な背景をもつ対立が中東情勢とともに先鋭化している。それぞれの陣営がはっきり対立する陣営にある人間に差別主義者のレッテルばりを(代表的なものは antisémite, islamophobe)するだけでなく、その間に位置する人々の言論についてもきわめて鋭敏に反応し、なにかにつけてこれらのレッテルを用いたがる傾向がある(したがって反ユダヤ、反アラブ・反イスラム両方のレッテルを貼られる言論人はめずらしくない)。今や、中東情勢についての議論は地雷の敷き詰められた地帯を歩くようなものだ。身近に行われたある討論会のものすごい荒れようを目撃して以来、この問題に関して生半可な知識や信念でめったなところでめったな発言はするまいと肝に銘じている(「おまえのいうことは間違い」「いやこうだ」、という議論はいくら激しくても踏みとどまれるが、「おまえは差別主義者だ」と言われるのは、たとえ相手が戦略で言っているのを知っていても、心理的にかなわない)。

それに加え、従来はむしろ性や言論の自由に敏感だった層の人々の関心の焦点が、性差別や性的マイナリティーの権利の問題にうつっていることがある。挑発的に性の解放を唱えていた世代の人々の多くがポリティカリー・コレクトに帰依している。70年代、80年代には誰も問題にしなかったような表現が、pédophile, homophobe, machiste などのレッテルを貼られ、実際に本が店から消えたり、著者が訴えられたり、そこまで行かずとも(ミニ)スキャンダルとなる。

この国が差別的な言論について法によって厳しくのぞんででいるのには、痛い経験を伴ったそれなりの政治的経緯や歴史がある。何かというと名誉毀損 diffamation で裁判に持ち込むのは19世紀から盛んな伝統だ。米国流の考えに慣れている日本人の目からは違和感があるかも知れないが、むしろEU内では標準的でさえある。

OraclutieImageしかしレッテル貼りが本来の目的から逸脱して道具化されて、それを用いる方法がしだいしだいに巧妙になってくる空気には、倒錯的で重苦しいものがある。こういう中で人々に自己検閲のメカニズムが働かないはずはない。外人である私自身が、日常色々なものを見たり読んだりする中で、「あ、これやばいぞ」「これはあげられる」と思う機会がどんどん増えてきている。自分の中の検閲センサーの感度が高まっているわけだ。当然それが無意識のうちにでもアウトプットに影響しないわけはない(念のために注記すると、私は、不利益を被っている人々の生きる現実や感情との関わりを無視した安易な「『言葉狩り』」批判」に組するつもりはない)。当然ここで「挑発者 provocateur」を演じる確信犯も出てくるわけだが(例えばHouellebecq、 最近の事件でいえばコメデイァンの Dieudonné)、だんだんとその活動域も限られてくる。

そういう思いがいやましになっていたところ、週刊誌 Marianne の今週号(今日となってはすでに先週号 No 345, 1 - 7 déc. 2003)の表紙が目をひき、もう1年以上も読んだことのないこの雑誌を買ってみた。表紙に人々の閉塞感をよくあらわしたイラスト。populiste, mahciste, antiaméricain,facho, islamophobe, homophobe, national républicain, antisémite 等の語が剣に書かれている。特集のタイトルがla nouvelle inquisition (「現代の異端審問」とでも訳そうか)、リードには Peut-on encore exprimer une opinion non conforme sans être cloué au pilori (迎合的でない意見を発表して晒し刑のはめに合わずにすむことが今日まだ可能か?)。特集の中身はセンセーショナルな受けを狙った例もなきにしもあらずだったが、世の中で何が起こっているか改めて俯瞰するには役にたった。この雑誌のウェッブサイトはよくできていたが、2年前に「一時」撤退し、まだ再開してないのは残念だ。




MSG: 43 on Tue 09 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: foulard et ficelle

「スカーフと紐」。voile et string の表現がもっと分かりやすいか。つまり、(イスラム・)ヴェールとTバック。

ある程度厳格なイスラム教信者が女性に義務つけているヴェール、公立の学校でこれの着用を禁止すべきかどうかの議論がこのところ再燃している。上で触れたような政治情勢の変化と密接に関連している。これに関してはフランス掲示板のtemjinusさんが今、丁寧にフォローしているのでそちらをどうぞ

一方のTバック(le string)、これもヴァカンス明けあたりからやはり学校との関連で議論を呼んだ。つまり、目にあまる娘たちのTバックを学校では禁止すべきという意見が出てきた(この問題はドイツで先行し春ごろ大きな議論になった)。日本で一時期あったような、服装を検査してどうのこうのの話ではない。下着の上部がウエストラインを越して常に見える(座っているときはおろか場合によっては立っているときでさえ)あの着かたである。最近はその部分を見せることを前提にデザインされているものまで出ているからますますエスカレートする(この記述、これ以上発展させると別掲示板話題になるのでこの辺で)。

こうした露出にどの程度寛容になれるかは教師の判断だが、現場でちらほらと問題が出てきたところに、社会党政権時代に初等教育担当の文部大臣だった議員が「男子学生たちの目にとって、女子学生を娼婦と等しくするもの」だと禁止に好意的な意見を述べ議論を呼んだ。そして時を置かずして現政権で同じ役職にある大臣も禁止に賛成の意見を表明。前者にあっては彼女がよしとする新しいフェミニズムの流れの立場からだが、後者は伝統的な保守主義的に根差している。

隠すと露出するの違いはあるが、時を同じくして議論になった、学校における服装の自由の限界についてのこの二つの事例が結び付けて考えられないはずはない。ジャーナリストがこの二つを並べて取り上げ出したと思ったら、こんどは、イスラムの宗教指導者がこれを利用することになった。曰く、「進歩主義者、政教分離主義者らはヴェールは女性の抑圧の象徴だとするが、Tバックこそ女性の尊厳を貶めるものではないのか。ヴェールこそ女性の尊厳を守るものだ。露出的なTバックが認められてヴェールが認められないのは転倒している」、と。

さまざまな思想的背景から禁止、禁止反対それぞれの意見が出てくる。そして誰も彼もが表向きは「自由、個人の尊厳」を旗印に巧妙に議論を展開しているから、それぞれ単独でさえややこしい話が、二つが絡まってますます錯綜してくる。

ヴェールについては、私も考えずにはおれず、いろいろ変遷を経た後の今のところの個人的な結論はあるが、ここでこんな話をしはじめると重過ぎ、きりがないのでこの辺で。本能に従って、voileよりも string(ウヒヒ)是派だだけ言っておきましょう (sans surprise)。


MSG: 44 on Tue 09 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Mesdemoiselles, on a le droit de vous embrasser !

いかにもフランスが息苦しくなっているような話を書いたので、息苦しくないエピソードを。2週間ほど前に目撃した光景。

待ち合わせの場所で時間をつぶしていたら、通りの向こうの小路の入り口にパトカーが止まっていて警察官二人が封鎖しているのに気づいた。何か事件でもあったのか? それとも近くに銀行があるので現金輸送車でも来るのか?と思いながらも、注視して不審人物と思われるのも嫌なので、それとなくちらちら観察していた(結局は後で、近くのレストランに来た要人の警備のためだと分かったのだが)。

若い女性が二人来て、警官となにやら話している。何かを頼み込んでいるようすである。警官はあきらかにノンというしぐさ。女二人は引き下がらない。どうもこの小路を通り抜けしたいらしいのだ。小路のほうをう指さして、ほんのちょっとだからというジェスチャー、警官はあそこから迂回しろというように指さしている。女たちは不満気だ。確かにこの路地が通り抜けられるのと、大回りするのでは5分以上違う。

何だかんだ話しているうちに結局警官が根負けして通すことになったらしい。女性二人は「ふぅ、やっと、でもこんなところ通行止めにして、やあね」という感じで、仏頂面をもうしわけ程度の作り笑いでカバーし、メルシーを言って通りすぎていく。そそくさと小路の奥に入っていく娘たち二人の背中に、警官の一人、からかうように

Hé Mesdemoiselles, souriez-nous quand même. On a le droit de vous embrasser, non ?

(あえて俗なスタイルで訳せば)
おい、ねえちゃん。ちょっとはいい顔しなよ。キスくらいさせたって罰はあたんないんじゃない?

女二人は振り返り大笑いしながら手を振って通りの向こうに消えていく。周りにいた別の通行人も大笑い。

ありふれた光景といえば、ありふれているが、四角四面に解釈するとどうなるか。まず警官は要人の警護の任にあるにもかかわらず、若い女の色香に負けて、規則を曲げる職務怠慢を犯したことになる。最近は女のテロリストだっているのに。そのうえ、その対価して、明示的に性的サービスを要求したことになる。

と、そこまで厳密にならなくても、警官が普通の女性にそんなセリフをはけば立派なセクハラととられてもしょうがない。この場合、娘たちとの共犯関係、警官のユーモラスな調子、通りに人が多いというその場の雰囲気があってちょっとしゃれたシーンになっているが、国とばあい、相手によってはまじでセクハラ云々になりかねない要素をもっている。イタリアは分からないが、少なくとも日本やドイツの警官がこんなこと口に出す様子は想像できない。

こんな街の情景が成り立っていく限りは、フランスは大丈夫だな−−セクハラ意識後進国と思う向きもあるかも知れぬが−−と思った次第。




MSG: 45 on Wed 10 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: réflexes conditionnés

「猫は呼んでも来ないが、呼ばないときにやって来る」と言うが、猫の立場にしてみれば「人はこちらが行きたくないときに呼び、行ってやっても知らん顔」ということになる。

と、ある時思い付いたので、「猫は...」を人が言うたびに、猫の代わりに「人は...」と答えるが、一度も感心されたことはない。

松本さんのアレ(これ人の名前。誤解なきよう)の話で小話づいているわけではないが、検索中に、4500以上小話を集め毎週増えていくというフランスのサイトをみつけたので、最初のほうを読んでいたら、「ねずみの立場にしてみれば」のジョークが出ていたので好感を持った。以下翻訳と原文。



実験室の三匹のマウスがそれぞれ自分たちの実験についてしゃべりあっている。

最初のねずみが言う。「あのな、おれの檻の中のドラム、そいつは発電機につながってって、その発電機がまた電球につながっているんだが、おれは、電球の光量がドラム中の走行速度と比例関係にあるということを証明したぜ。」

第二のねずみ。「ふうん悪くないね。おれは、どんな迷路でも抜けられる完璧なアルゴリズムを完成させたところだ。」

「なかなかいいじゃない」と第三のねずみ。「でも心理学の方面は?ぼくはね条件反射の理論について研究してるんだ。ぼくの檻に小さなベルがあるだろう、あれをね、ぼくがひっぱって鳴らすたびに、担当の研究者はかならず食べ物を持ってくる。」

Trois souris blanches de laboratoire discutent de leurs expériences respectives :

- Moi, dit la première, j'ai dans ma cage un tambour relié à une dynamo qui elle-même alimente une ampoule. Eh bien, je viens d'établir que l'intensité lumineuse est proportionnelle à la vitesse de ma course dans le tambour.

- Pas mal, dit la deuxième, mais moi, je viens de mettre au point un algorithme infaillible pour sortir de n'importe quel labyrinthe.

- Fort bien, dit la troisième, mais et l'aspect psychologique ? Je travaille, moi, sur ma théories des réflexes conditionnés. J'ai dans ma cage une petite cloche. Eh bien, chaque fois, que je tire la cloche, mon chercheur me donne à manger !


このサイト、トップメニューにいくと、小話のほかに、イラスト、写真ネタ(こんなシリーズこんなシリーズ)やお色気もいろいろあって、「グロ」は少ないが、2級、3級とりまぜて、昇華されてない「エスプリの下部構造」(用語の由来については松本さんの掲示板を参照)のようなものが楽しめる 。

ネズミとネコで〆ることにしてこれこれは上記サイトからのお気に入り。



MSG: 46 on Fri 12 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: "La France n'entre pas à l'Académie"

ここ1か月ほど論壇の一部を騒がせていたヴァレリー・ジスカール=デスタン元大統領のアカデミーフランセーズへの入会問題、投票が11日に行われて難なく選出ということでかたがついた。賛成19、反対8、白票4、他3。(以下は主に12日付けル・モンド紙の2つの記事から)

元首の肩書きを持ったフランス人がアカデミシャンになったのは過去に4度ある(ティエール、デシャネル、ポワンカレー、ペタン)。しかし第五共和制では初めてで、しかも特殊なのは、他の4人がすべて大統領になる前にアカデミー入りしているのに対し、今回は「元大統領」という肩書きを持ちながら選ばれたことだという。

反対意見の一つに、アカデミーは国家元首の庇護下にあるから、権力関係から上に立つ(立った)ものが、その会員に選ばれるのはどういうことかと。が、過去のケースにおいては逆に現職のまま会員だったわけだから、これに反対する原則はすでに崩れていたことになる。

公に反対の意を表明していたアンリ・トロワイヤがドゴールについての逸話を紹介する。ド・ゴールはアカデミーへの入会を進められたとき、「フランスがアカデミーに入るわけにはいかぬLa France n'entre pas à l'Académie」と断ったという。ルイ14世も真っ青のこの人らしい発言だ。トロワイヤは「アカデミーにはだんだん作家の数が減ってくる。私には理解しかねる事態だ」とも言う。

ジスカール=デスタン氏は大統領選挙での再選に失敗した1981年以来、一度もエリゼー宮に足を踏み入れていない。1981年の落選で彼が恐ろしく傷つきその傷を長年ひっぱっていた(る)ことは有名だ(一年以上新聞の政治欄が一行たりとも読めなかったと告白している)。が、近いうちにエリゼー宮に赴き現職大統領から選出の裁可を受けなければならぬことになるという。



MSG: 47 on Sun 14 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Miss France

テレビで中継されたミス・フランスをちょっとだけ見る。とりたててこういうもののファンではないので何年かぶりに見るが、段取りも美の規範も変わらない。それもそのはず、主催者やスタッフがほとんども何十年も変わっていず、相当の年配の人々が振り付けやらメークやらにあたっている。

美人コンテストというと、女性の商品化ということで最近評判が悪い。これを聞くたびに、女性の商品化の最大のソースである結婚制度のほうはどうしてくれるんだとボーヴォワールにならって繰り返したくなるが、それはさておいて、ミスコンテストというといつもJ.フレイザーの『金枝篇』(J.Frazer,The Golden Bough)の一節を思い出す。いささか季節はずれだが...

春の植物生育の精霊は、王によってではなくて女王によって象徴されることもしばしばある。リブコウィック(ボヘミア)の近傍では、四旬節の第四日曜日に乙女たちが白い衣をまとい、スミレとかヒナギクという言うような早春の花を髪に飾り、花冠をいだいて女王様と呼ばれる一人の乙女を連れて村じゅうを歩きまわる。[...]女王は家ごとに春の訪れを告げ知らせ、その家の者に幸運と祝福あれと祈るのであるが、お礼には贈り物を受けるのである。ドイツ領ハンガリアでは、乙女が自分たちの中から「聖霊降臨祭の女王」にふさわしい一番の美人を選んでその額に塔の形をした冠を結びつけ、歌をうたいながら街から街へと導いて歩く。そして戸ごとに立ち止まって古い民謡をうたい、贈り物を受けるのである。アイルランドの東南部地方では、五月祭の当日に一番美しい乙女を選び出し、それを向こう一年間の女王とする習慣があった。女王は野に咲く花の冠をかぶせられた。それにつづいて宴会があり、踊りやひなびた遊びがあって、夕べの大行列で終るのであった。その任期中、踊りや遊びの時に若い人々のいなか風な集まりを司るのは彼女であった。もし次の五月祭が来るまでに結婚すれば、その権威はそこで終りとなるのであるが、後継者は定めの日が来るまでは選ばれなかった。「五月の女王 May Queen」はフランスではよく見られ、イングランドでも馴染み深いものである(簡約版『金枝篇』、第10章。永橋卓介訳、岩波文庫版、第1巻、278ページ。訳文は若干改変)。

「乙女たちが自分たちの中から...一番美しい美女を選び出し」というのは、スムーズに行われるのか、ひとごとながら気になるが、それはさておき、一番の美女を選ぶこと、一年に一度行われること、祭であること、パレードがあること、選出者は女王と呼ばれること、冠をかぶせられること、贈りものを貰うこと、何か集まりを司る権能を与えられること、未婚でなければならぬこと等、現在の美人コンテストの要素がほぼ出そろっている。ないのは水着審査くらいのものか。

美人コンテストの歴史を調べたことはないが、田舎町でやる、「ミスじゃがいも」だとか「ミスぶどう」だとかは商業化したショーのコピーではなく、むしろ、こちらのほうがフォークロア的に起源に近いものだということになりはしないか、というのがこのフレーザーの記述を読んでいらい頭の隅にひっかかっている。ことは、「資本主義社会における女性の商品化」なんていう底の浅いものではなく、民俗的信仰に基いたもっと遠くに根のあるものではないのかと推測できる。ちゃんとした研究があれば読んでみたい。いずれにせよ、これと闘おうという人々は、相手は手強いということにもっと心したほうがいいようだ。



MSG: 48 on Fri 19 Dec 2003(CET) by Autel
Subject: The Golden Bough and A Red Card

実は手元にある岩波文庫版のフレイザーの『金枝篇』を開くたびに、どうしても気になることがある。その翻訳の質のことだ。20年近く前に一時期熱中して読んだ手持ちの版には、若気の至りで書いた原文との比較メモが場所によってはかなりの密度で書き込まれていて、どうしてもたびたびこの問題を思い出さざるを得ない。

「『O嬢の物語』を読む」で原文と翻訳の比較をかなり細かくやっていながら言うのも何だが、実は普段は自分では誤訳、悪訳の指摘というようなことはできるだけ控えているつもりである。このサイトで引用したさまざまな翻訳でも、傷を知りながらそのまま既訳を用いたり、既訳がまるっきり誤訳の場合は、そしらぬ顔で単に自分の訳を使ったりしている。翻訳にミスはつきものだ。ただし原著の種類や訳された場所によってどうしても平静でいられないケースがある。

この本に関して、長年迷い、今回も迷ったが、思い切って次のことだけ書き留めておきたい。

岩波文庫の『金枝篇』は、オリジナルの1922年簡約版1巻本を全訳したもので、5分冊になっている。私の持っているのは、1951年初版第1刷、1966年第3刷改版、1984年第23刷というデータのある版(第1巻の奥付けによる)で、少なくとも1966年以来読みつがれていた翻訳ということになる。ところがこれが、翻訳の忠実性という点からいうと場所によって傷が多い。

第1巻の最初の2章を見ただけでも、機械的なミスでいうと、細々としたフレーズの脱落(第2章の最後、第1章の最後から2番目の段落末)から、歴史的記述に混乱を与える固有名詞の誤り(アントニウス→アントニヌス)、あるいは次のような順序関係の錯誤 :

「ヒュポリュトスの愛をもとめるアルテミスとパイドーラの競争は、異なった名のもとに、アドーニスの愛をもとめるアプロディーテとペルセポネーの競争として再現されているといわれている。」(岩波文庫第1巻、p. 49)

となっているのは、原文

The rivalry of Artemis and Phaedra for the affection of Hippolytus reproduces, it is said, under different names, the rivalry of Aphrodite and Proserpine for the love of Adonis, for Phaedra is merely a double of Aphrodite. (Cap.1, § 2. Artemis and Hippolytus,第2段落。強調は引用者による。なおThe Golden Boughの1922年簡略版の全文は現在ネット上で読める)

からすると、

ヒュポリュトスの愛をもとめるアルテミスとパイドーラの競争は、異なった名のもとに、アドーニスの愛をもとめるアプロディーテとペルセポネーの競争を再現したものだといわれている

でなければならない。(この部分に続く文の for Phaedra is merely a double of Aphrodite に与えられている「けだしパイドーラは単にアプロディーテの複写にすぎないからである」という正しい訳がすでに先行部分と矛盾を起こしている)。


これだけ大部(岩波文庫で1千ページ余)だと、細かい誤訳はどうしても避けられない。それでも翻訳がある意義は大きい。正直いって私もこの翻訳書がなかったら全部を読み通すことはなかったろう。が、それにしても、事実関係、論理関係において精査の対照になる古典的学術書の翻訳としては表面的な表現の部分にとどまらない傷が目立つ。

実は、それでも傷がこの程度にとどまれば、時代的限界ということで斟酌でき、ことさらに云々することもなかったろう。訳者がどんな人かも、本がどのような条件下でどんな苦難ともに訳されたかも多少は知っているつもりだ。が、どうしてもほうってはおけない、一個所のミスがある。

フレイザーがこの簡約本を用意したときにつけた序文がある。その中で、岩波版の訳で次のような表現に出会う。

「簡約本には新しい資料も加えられておらず、最終版で発表された説も変更されていない。私が入手したその後の資料は、全体として私のこれまでの結論を確立するに役立つものではなく、旧い原理に新しい説明を提供するに役立つものでもないからである。」(p. 34,強調は引用者による)

これを最初読んだときは跳びあがるほど驚き、目を疑い、原文を確かめるきっかけとなった。予期したとおり原文は

In the abridgment I have neither added new matter nor altered the views expressed in the last edition; for the evidence which has come to my knowledge in the meantime has on the whole served either to confirm my former conclusions or to furnish fresh illustrations of old principles.(Preface、第2段落。強調は引用者による)

要するに、新証拠はすべての自分の説を支持しているから特に改めてとりあげなかったという言い訳である。

居丈高な物言いは好きではないが、あえて挑発的に言えば、もし上記の翻訳文を読んで何も疑問を持たずに納得しているようであれば、学問に携わる資格がない、と言い切ってもよい。原文にない否定詞がどこから出てきたのか。なぜこんなとんでもない誤りが少なくとも20年あるいはそれ以上もほうっておかれたのか。改訳までしている訳者や編集者やこれを読む多くの専門家の目にもかかわらず。

誤訳や誤植の中には、致命的な、レッドカードものというのがある。聖書で「汝姦淫せよ」とやった例が典型的だが、私にとっては、この一件は、「汝姦淫せよ」に匹敵する(個人的倫理観でいうと「姦淫」より悪い)。何を細かいことをぐじゃぐじゃと言ってるのかと思う向きもあるかも知れないが、問題は科学の基本的倫理にかかわり、翻訳・出版のモラルにおいて譲れない一線だ。このままだと、学術的古典の権威を通して、若い読者に「証拠握り潰し」「資料の恣意的選択」が人文科学において当然の行為であるかのような印象を与えることにもなりかねない。あるいは、アームチェアーに座りながらではあれ文献的証拠の扱いにおいては、細心すぎるほどに良心的であろうとしたフレイザーに、およそ学問的倫理観を無視するようなセリフを吐かせていることになる。食うために学問する必要がなく純粋な好奇心に動かされながら、古典学の訓練をバックボーンに持ち、フェアプレーの精神を旨としていた英国のジェントルマンの学問の伝統を体現するような彼が、そんなことを墓場の中で知ったら、何と言うだろうか。

こうした誤訳部分は大学のゼミナールなどではどのように読まれてきた(ている)のだろうか。この一件をも含めて、この本の訳が今のような状態になっているのは、訳者だけではなく、ある時点からは主に出版社の責任であるし、読者にも責任の一旦があるともいえる。

訳の問題について誰か指摘していないか、改訂版が出ている可能性がないかどうか知りたくて、ひとしきり検索したところ、それどころか、すでにこの本は絶版になり、昨年やっと一度復刊され、現在もなお「復刊ドットコム」の投票対象のリストに上がっていることを知り驚いた。1966年から1984年まで、毎年1刷以上のペースで出ていたこの「古典的名著」が。名著といわれるもので、古い時期に訳されたため時代的制約のある翻訳書の質を高めるためには、読者によるアクティヴな批判が必要だということを、ずっと前からこの本にからめて言いたかったのだが、日本の出版界、読書界の事態は今やもっと深刻なようだ。そもそも読者がいなければ翻訳の質の向上など望むべくもない(一方、1900年の原著第2版の翻訳が昨年筑摩書房から出ている、1936年の13巻本の翻訳の出版も待たれているというのは救いとなる情報だ)。

20年間近く胸にわだかまっていたことを書いてすっきりしたかったが、また別の意味で心が重い。売れているうちは批判の意義が大いにあったのだろうが、今となっては、商品としては風前の灯火の本にいいがかりをつける文となってしまった。

まだ読んだことのない人へのメッセージ。どうにか手に入れて是非読んで欲しい。翻訳でところどころにでこぼこがあろうと、通して読めば大きな感銘を受ける本だ。あれ?と思ったところは原文と対照すればよい。今はネットで原文が簡単に見られる。長いといっても『ハリー・ポッター』の最新巻とどっこいどこいだ。また品切れになったら復刊ドットコムにどんどん投票して何度も再刊させ、改訂が必要なほどのベストセラーにしてほしい。




MSG: 49 on Sun 21 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: アンリ・アイネ

かぐら川さんの日記でハインリッヒ・ハイネのことを思い出し、ある詩句の訳を探して、日本のサイトをしばらく検索していたら、フランス語の書き手としてのハイネについての日本語の情報がネット上に少ない、というか皆無なのが気になった。ハイネの多くの批評文はフランス語で発表された(この人の書いたドイツ語のテキストとフランス語のテキストの順序関係、照応関係はやたらと複雑で、また、自分の名前で発表しても実は翻訳者をつかったりしているのだが、その辺のことはひとまず置く)。

ハイネがはじめは主にフランス語で発表したドイツ紹介の文を集めた De l'Allemagne という本がある。単行本初版は1835年で、大幅に増補された版が1855年に出た。現代の注釈版は Henri Heine, De L'Allemagne, Ed. de Pierre Grappin (Gallimard, 1998)。『ドイツについて』あるいは『ドイツ論』とでも訳そうか。スタール夫人にすでに同名の本があるが、これに対抗することがハイネの直接の執筆動機だった。フランス語版からの邦訳はないようだ。1835年版にあたる前半部分のドイツ語版 Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland からの訳は『ドイツ古典哲学の本質』といういかめしいタイトルで岩波文庫に入っている。

1855年版の最後に「著者の告白 Aveux de l'auteur」という章がついている。著者の半生、若き日のサンシモン主義信奉から宗教の肯定的評価にもどる思想遍歴が書かれているといえば格好いいが、やたらと脱線が多く、雑多なエピソードやゴシップ、自慢話やらがつまっている。その中でもスタール夫人と彼女のサークルにいたドイツ人に対する攻撃がすさまじく、何度もぶり返すように延々と続く。ハイネといえば、普通は「ローレライ」の「ロマンチック」なイメージがまず浮かぶが、過激さも彼の大きな一面だ。そして時になんとも品のない毒舌に陥る癖がある。それにしても、このテキストの中のスタール夫人その人に対する性差別的攻撃の口調は現代の書き手にはもはやタブーの領域だ。戯れに紹介したいくらいだが、私の趣味からも訳ははばかられるので、その毒舌の一旦は、別のあたりさわりのない(?)相手を標的したパッセージで。

このアカデミーとやらは、老いぼれて赤子がえりした文学者たちの子守り所であり、まことに慈善的な組織だ。よぼよぼになった年寄り猿のために病院を建ててやるヒンズー教徒に見られるアイディアと同じだ。この組織の−−インドの病院ではなくアカデミー・フランセーズのことを言っているわけだが−−ご立派な面々を収容する建物の屋根は、やたらとでかい半球形で、さしずめ大理石のかつらというところだ。この古びたかつらを眺めると、このアカデミーがのうのうと生き延びながら餌食にした大勢の才気溢れる人々の鋭い言葉を思い出さずにはいられない。フランスでは愚劣さに人は耐えられれないというが、それは嘘だ。

1831年に33歳ではじめてパリに来て、あちこち観光してまわり、アカデミー・フランセーズ見学に行ったとときの話だが、単なるおのぼりさんではなく、ちゃんとフランスを批判の目で見る若きインテリであることろを見せようとしているところに逆に強がりも見える。



MSG: 50 on Tue 23 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site

松本さんが、アルフォン・アレ(Alphonse Allais)の、クリスマスにちなむ短編2つを翻訳してくれている。アレのとぼけた文体が伝わってくる翻訳だ。文学作品のばあい、原文を読んだときの印象と翻訳の日本語の文体があまりに違うと、読んでいて神経にゴツゴツとひっかかり先に進まないものだが、この翻訳だとその心配なく文句なしに楽しめる。語彙的にも罠の多い文だが、松本さんはそれをひとつひとつ注意深く避けている。

boudin parisien という表現が何を意味するかが、問題になり、松本さんが自問していた。私も気になっていて、確信がもてたら書こうと思っていたが、メグレ警視のパリの写原さんの通報で一応の解決をみたようだ(詳しくは松本さんのサイトの掲示板で)。私も今の形のほうが落ち着きがいいように思う。omnibusについても同意見だ。

写原さんは「La jeune fille et le vieux cochon 美しい娘と年老いた豚」というアレの別の短編を訳しているが、リンク元がひっそりと隠れているので、私もここに改めてメモしておきたい。後をひく奇妙な味のある話です。

松本さんによる小話の紹介にはじまり、これでアレの翻訳が少し増えたわけだ。楽しんで読んだ読者が、楽しみながら翻訳し、その成果を分けてもらって多くの読者も楽しむことができる。文学テキストの翻訳の基本につきあえるのは何ともいえない喜びだ。



MSG: 51 on Tue 23 Dec 2003(CET) by Autel
Subject: Boudin de Noël et Sacrifice de cochon

上のアレの話で、クリスマスの家庭料理としてフランスで食べる boudin (ブダン。豚の血のソーセージ)が問題となっていたが、これは冬至の祭の生け贄のなごりではないかという推測が自然と思い浮かんだ。ことさらに「血」の部分を食するというのも意味がありそうだ。なにせ『金枝篇』を見直したばかりなのでそちらのほうに発想が行ってしまう。

クリスマスにその日のために新しく屠殺した豚、特にその血で作ったboudinを食べるという習慣は、フランス(北部?)だけでなく、ベルギー、ルクセンブルクあたりでも見られたようだ。あるベルギーのサイトに一昔前の典型的な習慣が説明してあった

上のサイトでは、食料確保の面から主に説明されているが、生け贄という側面については、『金枝篇』では第48章9節に、そのなごりの形も含めて、ヨーロッパ各地のいろいろな例が説明されている。中には次のようなぶっそうな話も。

昔はクリスマスにあたって真物の豚が犠牲にされ、また「聖誕祭牡豚」の性格において人間も犠牲にされた。これは少なくとも、今日スゥエーデンでまもられているところの、あるクリスマスの習慣から多分は推断され得ることなのである。ここでは一人の男が獣の皮に包みこまれ、その口に藁束をくわえて、両方に突き出した藁が牡豚の剛毛のようにみえるようにする。そして小刀が差し出されると、顔を黒く塗った老婆がそれで彼を殺すまねをするのである (岩波文庫第3巻、p.268。永橋卓介訳を一部改変)。

実際にクリスマスに豚を屠殺する具体例をフレイザーはあまりあげていないが、検索してみると、これは現在もルーマニアでは重要な行事であり、また、これをめぐってEU委員会とのあいだにおきている一悶着がメディアをにぎわせているということを知った。クリスマスのために豚を農家の自分の中庭で殺すのを動物保護の精神に反するとしてEU委員会が、屠殺場で麻酔をかけて行うように勧告したのに対し、ルーマニアの農民が反発しているという。「もしこれがEUだとしたら、そんなものには入りたくない」「今までのようなやりかたで豚を屠殺できなくなったら、クリスマスの祝祭はまったく別ものになってしまう」「クリスマスにソーセージやブダンを作らないルーマニア人はもやは本物のルーマニア人じゃない」というような人々の声が紹介されている。自分たちのやりかたでの屠殺ということにこれほどこだわるのは、やはり、生け贄というフォークロア的あるいは宗教的意味があるためだと考えてよいだろう。

上でリンクを張った記事では最後に、ウリポのメンバーの一人でモノシラビック詩(1音節の語だけで書く詩)の名手アラン・シュヴリエ Alain Chevrier (そういえば以前話題になったネルヴァルの 『廃嫡者 El Desdichado』のパロディ企画にも参加していた)による、屠殺される豚についての詩が紹介されている。

アレのクリスマスの短編からはじまり、最後はアレの「豚モノ」の世界に近いところに戻ったようだ。



MSG: 52 on Wed 24 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Je suis dinde

ブダンがごちそうだった時代ははるか遠い昔となり、質素な伝統を重んじる家は別として、クリスマス料理の主役は大方、やはり鶏・鳥のローストだろう。七面鳥は中でもポピュラーだ。いつもは安料理の典型的なレパートリーに属するこの鳥が、この日は偉そうに足を上に向けてテーブルの中央に鎮座することになる。

七面鳥はフランス語では la dinde 。名前の由来は 「poule d'inde インドの鶏」で、コロンブスがインドと思った新大陸からヨーロッパに移入されたことによる。dindeにはまた「馬鹿な女」という意味がある。この鳥の動きの鈍さから来ている。

この比喩的意味のおかげで歴史小話に名を残すはめになった女性がいる。歴史の教科書ではウィーン会議での活躍で有名なタレーラン、その夫人は、インド東海岸のデンマーク植民地だったトランキバールで生まれたが、彼女が「私はインドの生まれです Je suis d'Inde」と言うのを、人々は "Je suis dinde"(「私って馬鹿な女」)と聞き、大いに笑いの種にしていたという。

OraclutieImage真偽のほどはわからないが、こういうエピソードが広まったのにはそれなりの背景がある。というのも、このタレーラン夫人、人々にいかにもと思わせるところがあったのである。1762年生まれ。結婚前の姓がウォルレー Worlée、名前は カトリーヌ・ノエル Catherine Noël(奇しくもクリスマスにちなむミドルネームが入っている)。16歳で英国人と結婚して、グラン(あるいはグランド)夫人 Madame Grand となり、その名で普通は知られる。が、結婚した直後から、浮気のしっぱなしで、特にパリに住むようになってからは、愛人をとっかえひっかえ。一時期イギリスに逃れたりして革命期の混乱をうまく乗り切り、最終的に見つけた大物愛人が外務大臣のタレーラン Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord(1754-1838)。そのうち彼といっしょに暮らすことになる。「非常に美しい女性だが、こんな怠惰な女性はいまだかつて見たことない」とはタレーランの評。コケットな美人だが頭はからっぽ(というか能天気)、そしてわがままというステレオタイプを地でいくような女性だったらしい(植民地で植民者の家に生まれ、多くの使用人にかしずかれて育った女性に度をはずれてわがままなタイプが多いと沼正三氏が論じていたのを思い出す)。そのコケットぶりは、21歳の彼女を描いた女性画家ヴィジェー・ル・ブランによる肖像画でしのぶことができる。

1802年にタレーランと結婚。当時フランスは法王庁と微妙な外交折衝をしており、公然と愛人関係を続けているこのカップルがフランスを代表して外交レセプションを行っていることにさすがに眼のつぶれなくなったナポレオンが二人を結婚させたのである(タレーランはもともと聖職者だったため事情はいっそう複雑であった)。この結婚には、この後、タレーランが別にクルランド Courlande 公爵夫人と愛人関係になり、さらに自分の甥の妻となるその娘(つまり義理の姪)と深い中になるという有名な話が続くことになり、興味深いエピソードが続々と出てくるが、こんな話をやりだしたら Ura Noteが連載歴史ロマンになってしまう。夫人は、後半生をタレーランと別居のまま、慰謝料で悠々自適に(たぶん愛人をとりかえながら)暮らし1835年、73歳で没。最後は宗教に没頭していたという。


ヴィジェー・ル・ブラン Vigée Le Brun (1755-1842)はマリー・アントワネットをはじめ、18世紀末、19世紀前半の有名な女性を多く描いた肖像画家。彼女についてのウェッブ・サイト Vigée Le Brun's Home Page は素晴らしく充実している。全点(たぶん)の作品の画像資料だけでなく、彼女の残した回想録(英訳版)の全文まで。 タレーラン夫人についてもネットで見られるものとしては最もまとまった伝記が掲載されている(ただし一部正確さを欠く)



MSG: 53 on Thu 25 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Saumon de Talleyrand

しかしタレーランというのは不思議な男だ。僧侶で革命派に加わり(まあここまではありうるケースとして)、革命政府内では教会財産の国有化を率先して主張。ナポレオンのクーデターに参加したかと思うと、王政復古に協力。ギロチンにかからなかっただけでも奇跡なのに、そのつど外務大臣の職にとどまる。ウィーン会議では、敗戦国を代表しにきたはずなのに、いつのまに完全に外交の主導権を握り、都合のいいようにヨーロッパの地図を塗り替えてしまう。

来年は生誕250年ということで、2月にESSEC(Ecole Supérieure des Sciences Economiques et Commerciales)の主催、外務省の肝いりで、大きなシンポジウムが予定されているという。タレーラン友の会のサイト(このサイトも素晴らしい)に行くと、トップページに案内があって、PDFファイルでプログラムがダウンロードできる。レアルポリティークとレトリックの力の両方をうまくあやつることで外交が進められ、そのおかげでフランスがなんとか大国の地位を維持することのできたタレーラン以来の世界が、まさに露骨なパワーだけがものをいう問答無用の世界に変わっていくかもしれない、そんな危機感を多くの人が持っている状況で、シンポジウムはきわめてアクチュアリティーを帯びたものになるはずだ。

彼が美食家で、そして美食によるもてなしを外交の武器の一部と心得ていたことは有名な話だ。「タレーラン風 à la Talleyrand 」と名のつく料理は多い。名料理人カレーム Antonin Carême (1784 - 1833)が彼に仕えていた(そういえば、シンポジウムの晩餐にはカレームによるメニューを再現したものも含まれている)。カレームの出てくるいかにもタレーランらしいエピソードを、別のタレーランサイト(なかなか貴重な資料を掲載しているサイトなのだが、音楽がちょっとうるさい)でみつけたので訳出して紹介したい。タレーランのサーモンと題される作者不明のテキストである。



タレーランのサーモン


大外交官のタレーラン公は大のグルメでもあった。ウィーン[会議]に出かけるにあたって公は、ルイ18世に対し次のようにきっぱりと告げた。

「陛下、私にとって必要なのはご指示よりも鍋一式でございます。私におまかせ下さい。こちらにはカレームがおりまする。」

というのもかの名料理人カレームは公に仕えていたのである。

さてウィーンに着き、ある日のこと、タレーラン公は豪奢な晩餐会を催すことにした。一人の男を有名にしたのみならず、彼が代表する国の名誉を高め、人々が長く語りつぐことになる、あのうち続く晩餐の一つである。公はとりわけ魚の見事なのを供したいと思っており、確実に望みのものが手に入るよう、2匹の巨大なサーモンを2か所の違う店に注文してあった。

晩餐の日の朝、ライン川産の見事なサーモンが届けられた。それは人の背丈ほどもの大きさであった。皆がこの並外れた生き物を見ているところに、モーゼル川でとれた第二のサーモンがやってきた。こちらのほうは長さ6フィートを下らない。

そこでカレーム、「閣下、サーモンが一つ余計でございます。二つともお出しするわけにはまいりません。」
「いや、二つとも出してくれ」、と外交官。
「お言葉ですがが、それはできかねます。まったくもってしきたりに反します。」
「が、これは私の注文なのだが...」
「閣下。業務上の違反行為を私に強制することは誰であろうとできません。」
「まあまあ、そう怒るものではない、カレーム。」
そして外務大臣は料理人の耳に何事かささやいた。

さて晩餐が始った。数え切れないほどのろうそくで照らされた食堂にダイアモンドと軍人の勲章がきらめく。突然フルートとヴァイオリンが鳴り、特別料理の到来を告げる。

二人の給仕長がうやうやしく銀の皿を運んで入ってくる。ライン川のサーモンが、レモンとパセリに囲まれ、花をしきつめた上に乗っている。

居合わせた皆が賛嘆の声をあげたとき、突然、給仕長の一人が足を滑らし、サーモンが床の上に落ちてしまった。

誰かが、残念そうにそして不満気につぶやくのが聞こえた。こんなことが起こっていいものか。こんな素晴らしい魚が...だいなしに...

「カレームを呼べ!」とタレーラン公が叫んだ。

「コック長殿」と公は詰問するように言った。「自分の料理がどんなざまになったか見てみたまえ。こんな事故が起きるなんて考えてみたことがあるのかね。」

とカレームが答えて、「閣下、別のサーモンがしかと用意されてございます。いつもまさかのときのための用意をしておりますので」。

そして、同じセレモニーが繰り返され、モーゼル川のもっと見事なサーモンが運びこまれた。

Saumon de Talleyrand
出典 http://perso.club-internet.fr/pcombal/saumon.html



MSG: 54 on Sat 27 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Eloge des voleurs de feu

外交官のレトリックという話になると、現職のフランスの外務大臣ドミニク・ド・ヴィルパン Dominique de Villepin のことを思い出さずにはいられない。

今月のはじめに彼の演説・インタヴューを集めた『Un autre monde もう一つの世界』(L'Herne, 2003)という本が出て、イラク戦争をめぐる外交戦のさなかのこの人の発言が一冊にまとまって読めるようになった。政治上の議論には立ち入らないが、国連の安保理の演説を聞いたときも、改めて活字で読んでもはっきり感じるのは、この人の文は、美文調の見本のようでありながら、空虚に響くことを避けさせる生き生きしたリズムを持っている。Un autre monde にはアメリカの政治学者スタンレー・ホフマン Stanley Hoffmannが序文を寄せ、この外交官の駆使するレトリックがレアルポリティークと理想主義の両方に支えられていることを指摘している。

ド・ヴィルパンが今年の5月に出版したもう一冊の本 Eloge des voleurs de feu (Gallimard, 2003)(『火盗人讃歌』と訳そうか)は別の意味で話題となった。ガリマールのNRFシリーズから出たこの800ページ以上の大著は丸々「詩」に捧げられている。書名中の voleur de feu 火盗人はもちろんプロメテウスのことだが、ランボーの「詩人はまさに火盗人なのです」ということば(ポール・ドムニー Paul Demeny 宛ての1871年5月15日付の手紙)に由来している。

書中、中世から現代の詩人まで、そしてフランス語圏だけでなく他の言語の詩人も縦横に引用される。リュトブフ、ヴィヨン、ロンサール、ルイズ・ラベー、シェニエ、ラマルティーヌ、ミュッセ、ユーゴー、レオパルディンヌ、ボードレール、ネルヴァル、ヴェルレーヌ、ランボー、サンドラルス、アポリネール、サン・ジョン・ペルス、エリュアール、アラゴン、デスノス、マックス・ジャコブ、ジャン・グロジャン、ルネ・シャールという名前が同じページに並ぶ。が、一読して伝わってくるのは、衒学ではなくそれぞれの作品への愛着だ。概説でも、通常の意味の評論でも、厳密な分析でもない。個人的な深い体験、時には痛切さを忍ばせる体験に基づいた、文字どおり詩への、詩人=火盗人への「讃歌」である。全部で10の章に分かれ、それぞれがさらに題名を持った小さい節に分かれ、読み進むうちに、われわれは、詩人が、最初の叫びを発し、孤高の道に踏み出し、ことばの決まりを破壊しながら、不条理な世界の中を、ことばという火だけをたよりに、さ迷い、旅するさまに、豊富な詩の引用とともにつきあわされることになる。どんな感じか、少しだけ翻訳して引用してみる。第5章「Alchimie du verbe ことばの錬金術 」、第5節「 Le réenchantement du monde 世界の再魔術化」の冒頭。


ことばでこの世を肉づけようとして、火盗人は、自らの運命がそこで成就する「言語のざわめき bruissement de la langue (R.バルト)」に自らを委ねる。詩創作の最も古いメタファーは旅、出発、彷徨である。酔いどれ船、シベリア横断鉄道、アナバシス。詩は碇を巻き上げる。転覆、ゆすぶり、鋳造、変容、精妙なあるいは粗暴なイメージ化。そうやって語に酔うことがあくまで本質であり、詩は、それが声に出して語られていた幼少期、声と歌のあらゆる可能性を利用しつくそうとしていたその時期を忘れることはない。ことばはこの世界の起源であり、その誕生の紺碧に澄んだ日以来そこで自らが育ったが、詩人はその語りのことばに息吹を与える。リリシズムは、自己演出の手段になる以前は、詩人にとりついた感情や感覚を喚起しようとするもの、詩人をゆりかごのように包む、その耳につきまとう旋律を再現しようとするものだった。それは、詩人だけが和声の規則を知る独特の音楽である。

特定の音色を強調することで満足するにせよ、新しい語を作りだすところまで至るにせよ、詩は楽譜のように展開される。が、原初のリズムを取り戻そうとして、詩人はすべての論理的整序を、音楽的規則を斥ける。不協和音に、音を切り裂くことに、リズムを崩すことに向かう。混沌とした未知の動きが彼の言語=舌を駆けぬけ、不意の身震いやおののき−−エネルギーと生の兆候−−で彼を活気づける。「最初にリズムがあり、リズムは肉体となった Au commencement était le rythme, et le rythme s'est fait chair (B.サンドラルス)」 。呼吸の運動と胸の鼓動ははその詩法のメトロノームだ。それは最も抽象的なことばにも魂と肉体を与える。詩人は、語の原初の荒々しい力を取り戻し、言語の難破に抵抗するため、大地と空から力を汲み出す。生をくまなく探りながら、彼は、存在の豊かさと世界の多様さを可能にしている、多元性、同時性、弾力性を陶酔のきわまで復元しようとする。なぜなら「すべては色−運動−爆発−光である tout est couleur mouvement explostion lumière(B.サンドラルス)」からだ...(pp.361-362)


文中で()内に省略して埋めた注は、実は原文では脚注になっていて詳細な出典指示がある。また他にある脚注部も省略してある。注はないが「酔いどれ船」はもちろんランボーから、そして「シベリア横断鉄道」はサンドラルスから、「アナバシス」はサン・ジョン・ペルスからだ。

学術的に上手に整理されているとはいえず、ル・モンドの書評(2003年5月30日付け)にもその辺がはっきり指摘してあったが、展開に行きつ戻りつ、迷いつが多い。が、著者自身の大づかみな問題意識にそっての流れがある。それ自身が散文詩であるかのようなことばの饗宴に身をまかせ、次々と引用される詩(上の引用ではそうした部分は紹介できなかったが)を味わっていくうちに、著者がある種の痛みや怒りとともに痛切に感じている詩の喜びを、われわれも分かち合うことができる。フランス語を読める者だけにこれの体験が限定されるのは惜しい。大著ではあるが、誰か訳してくれないものか。



MSG: 55 on Mon 29 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Florilège de la poésie française - le paresseux

そういば、外務大臣が詩人のせいか、それともずっと以前からそうなのか知らないが、フランス外務省のサイトが提供している、Florilège de la poésie française フランス詩華選はよくできている。

フランス詩のサイトといえば、仏文学関連リンク集に入れてあるWebnet Poésie françaiseが6000篇以上を収録していて便利だが、こちらのほうは365篇に限定(一日一篇読みましょうということだろうか?)してある文字どおりの選集である。ただし著作権の関係で死後70年を経過した詩人に限られている。第一次大戦前までのフランス詩の概観になる、とはサイト自身の説明。時代別、地理別、テーマ別、詩形別などいろいろな検索もでき、一つの詩から、何かが共通する別の詩へ飛ぶこともできて便利。来年の1月1日から一日一篇読んでみようか、とも思うが三日坊主になりそうな予感。

Webnet Poésie française と同じく詩のランダム選択ができ、これは一日を占うおみくじがわりに使えるので、今やってみたら、出てきたのはなんと、「怠け者 Le paresseux」と題する詩。作者のマルク・アントワーヌ・ド・サンタマン(Marc-Antoine de Saint-Amant 1594-1661)は名前だけかすかに聞いたことがあるくらいで、その詩は今はじめて目にする。ソネットで、冒頭部分はこんな感じ。

Accablé de paresse et de mélancolie,
Je rêve dans un lit où je suis fagoté,
Comme un lièvre sans os qui dort dans un pâté,
Ou comme un Don Quichotte en sa morne folie.

ものぐさとユウウツにのしかかられて
寝床の中で着のみ着のまま夢をみる
骨を抜かれパテになって眠るうさぎか
陰鬱な狂気に沈むドンキホーテのように


朝からなんとも縁起のいいことだ。三日坊主の予感もまさに正しい。


MSG: 56 on Wed 31 Dec 2003 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: 大つごもり

何年かに1回、大みそかに思い出すのが樋口一葉の『大つごもり』(1894)。年越しの浮かれた気分の中で、遠い時代のコントとしてふと思いだすこともあれば、数字とにらめっこしながらわがことのようにまさに身につまされる思いで読み返すこともある。

20代の初めに彼女の文章にぞっこんになったことがある。以来何度読んでも思いをあらたにする。しかし私の世代には(「にも」というべきか)かなりの努力なしに読めるものではない。当時の風俗にかかわる語彙に関してはもちろんこと、文法、文体的にも自明でないことが多い。たかだか百年少し前の日本語なのに、新聞や普通の現代読み物の読者相当程度の私のフランス語力で読む3世紀半前のパスカルより違和感があるのを思うとき、日本人が過去の文学伝統を、受け継ぐとまでたいそうなことは言わないが、娯楽として享受するときのハードルの高さをいやというほど思い知らされる。

一葉を初めて読んだとき、会話文が地の文になんの区切りもなく埋め込まれ、なめらかに、あるいはぐいぐいと叙述が展開していくそのスピード感に驚いた。とくに『にごりえ』の冒頭は新鮮だった。今から考えてみれば、一葉に限らず、日本文学の伝統の一つの要素なのだろうが、無知だったから、一葉に新鮮な驚きとともに出会え、結局得したことになる。ナボコフが『失われた時を求めて』のプルーストの文章の新しさについて、描写の地の文と会話文がひとつに溶け合って統一を見出しているという点をあげているのを読んだとき、すでに日本文学では皆それで楽しんでいたのだぞ、とニンマリしながら思ったものである(「『O嬢の物語』で読む」でときどき触れているが、『O嬢の物語』にもその要素がある)。

一葉の文がどんなフランス語になるのか気になって、仏訳があるかどうか調べたら、"Qui est le plus grand ?" という作品だけが出ていることがわかった。『たけくらべ』という日本語が思い浮かぶまで何秒かかかった。『大つごもり』、『にごりえ』などは未訳のようだ。フランス語になると『大つごもり』はモーパッサンのコントのようにな雰囲気になるのだろうか。

『大つごもり』 (青空文庫 No. 388)を今読み返して、最後のクライマックスの結び部分、落ちとなる数行の結尾の前の、「奥の間へ行く心は屠所の羊なり」という句が気になった。語彙といい概念といい、日本的ではない。この部分だけ浮き立って西洋語くさい。"Comme un agneau conduit à l'abbatoire"というフランス語が思い浮かんだので、検索すると、旧約聖書「イザヤ書」第53章、第7節が出典とわかった。日本語の聖書とだと、「屠(ほふ)り場に引かれる子羊のように」(新共同訳)、「屠場(ほふりば)に引かるる羔羊(こひつじ)の如く」(聖書教会文語訳、旧新約聖書)となっている...云々

と書いて一旦送信したあとで、「屠所の羊」でもういちど検索してみたら、この句は、『源平盛衰記』にも出てきており、仏典に出典がある有名な文句らしいことがわかった。『大つごもり』の展開の文脈でいうと、聖書でこの句の後につづく「捕えられ、裁きを受けて、彼は命をとられた」という表現が、一葉の頭にはあったろう、とまで推測したのになあ...

残念。やはり自分が無知の分野は鬼門だ。羊を屠るということについてのたとえというのが、どうしても日本人の生活習慣とぴったりこないので、日本語の伝統的表現ではないと思い込んだのが間違いのもとで、恥をかきながら一年を締めくくることとあいなった。

時差の関係で日本はもう大つごもりも残すところあと数時間。まさに羊は屠られて猿に席を譲ろうとしている。皆様、よいお年を。来年もまたよろしく。



MSG: 57 on Thu 01 Jan 2004(CET) by かぐら川   Web Site
Subject: ちょっとだけ、おじゃま

Autelさま、旧年中は、お世話になりました。
このページ、書き込みができるとは思ってもみなかったので、今までread-onlyでした(これからも、そうでしょうけれど)…。

「屠所の羊」。そうでしたか、まったく気にもとめていませんでした。
『西行物語』にも、出てくるようですね。出典の仏典名など、おわかりでしたら向学(好学!・広学?)のために教えてくださいませ。


MSG: 58 on Fri 02 Jan 2004(CET) by Autel
Subject: 明けましておめでとうございます

かぐら川さん、明けましておめでとうございます。このノート、コメントがなかなかもらえないなあ、と思っていたら、かぐら川さんからの第一号をお正月そうそういただき、うれしい新年のお年玉になりました。Read Onlyなどとおっしゃらずに、これからもどうぞ気軽に書き込んでください。今回の件で危惧しているように、一人よがりになるとどうもいけません。

「屠所の羊(屠所之羊)」ですが、ネットで検索してみると、普通の熟語として使っている方々もいらっしゃるところをみると、かなり知られた成句のようですね。検索していると四字熟語を集めたサイト
http://www57.tok2.com/home/kenokun/yoji_to.html
で出典を『摩訶摩耶経』としているのが見つかりました。

実はネットに頼らなくても、手元の辞書を引くと、
『広辞苑』--出典・用例 「摩訶摩耶経」「平治物語」
藤堂明保編『学研 漢和辞典』--出典 「涅槃経」
など、ちゃんとわかるようになっていました。

師匠なんてものは私にはいませんが、もしそういう人がいれば、「ばかもの」と一喝されそうなポカでした。勘やネット検索に頼らずにまず基本的なレファレンスをひくべし、という年頭の自戒になります。

王朝文学でも「羊の歩み」というだけで「屠所の羊」を喚起させる約束ごとになっているようですね。短歌にも用いられるようですし。俳句でも使われるのでしょうか。経典中でどういう文脈で出てくるか確認できませんが、これとは別に古代中国では羊は犠牲用の獣だったので同じような概念はあったのかもしれません。いずれにせよ、西洋からの翻訳借用というのはとんだ勘違いでした。が、時代は千年以上遡るにせよ、日本の生活習慣に照応する現実をもたないまま、大陸から入ってきた表現で、それゆえ逆に想像力を刺激するインパクトの強い成句となっているのかとも思っています。

また「屠所の羊」での検索では、E.S.ガードナー(A.A.フェア)の小説 Lamb to the Slaughter(1939) の邦訳タイトルとしてたくさん出てきます。この小説でこの表現を知った人もいるのでしょうから、「屠所の羊」の語のイメージには、現在、私が勘違いしたような聖書起源と、古典に馴染んでいる方にとっての仏典起源が混在しているのかもしれません。

こういうときに喉から手がでるほど欲しいのは、南方熊楠の『十二支考』で、たぶんこの件に関して、東西の共通点に触れるなんらかの言及があるのではないかと想像しています。日本で持っていた南方の選集を置いてきてしまったのをたびたび悔やみます。

本年もよろしくお願いします。


MSG: 59 on Mon 05 Jan 2004 by Autel   E-mail   Web Site
Subject: Evariste Parny - Billet

今年はじめて試したフランス詩華選のおみくじの結果はエヴァリスト・パルニー Evariste Parny (1753-1814)の Billet なる詩。戯れに訳を試みる。

「表」サイトの「夜めくり記」に載せたが、Ura Noteに来る方であちらのほうへは行きにくい向きもいらっしゃると思うので、こちらでも少し紹介。後で見直して手を入れることになるかもしれないが、とりあえず現在のところの訳稿をオリジナルに添えて。

Évariste Parny
Billet

Apprenez, ma belle,
Qu'à minuit sonnant,
Une main fidèle,
Une main d'amant,
Ira doucement,
Se glissant dans l'ombre,
Tourner les verrous
Qui dès la nuit sombre,
Sont tirés sur vous.
Apprenez encore
Qu'un amant abhorre
Tout voile jaloux.
Pour être plus tendre,
Soyez sans atours,
Et songez à prendre
L'habit des Amours.


エヴァリスト・パルニー
恋人のメモ

おぼえておいて、
0時が鳴ると
なつかしい手が
恋人の手が
ひっそりと来て
闇を探って、
夜更けにお前が
緩めてあった
かんぬきを解く。
おぼえて欲しい、
恋するものは
ヴェールを嫌う。
すべてをほどき
可愛くおなり
おまえに似合う
愛の衣で。


5音節の詩行が続く形になっていて、口ずさんでいると童謡のようでもある。5音節の詩行は古典にはめずらしいと思って、韻律について書かれたページを見てみたが、特にフランス詩の用語としては呼び名もないらしい。強いて呼べば pentamètre ということになるが。cinq syllabes, pentasyllabe などで検索すると俳句の解説ばかりが出てくる。もともと奇数音節の詩は少なく、5音節、7音節は特殊な効果を狙うとき(ヴェルレーヌなど)という解説も。日本語の訳ではさすがに5音節では厳しい。口語だと7音節でも私の腕では情報量を落とすはめになった。



MSG: 60 on Tue 06 Jan 2004(CET) by Autel
Subject: l'habit des Amours

夜通ってくる恋人のために閂をはずしておくというのは、和歌や民謡にもあるように、東西に共通する主題だが、錠のタイプが違うので正確に訳すのは困難だ。字数あわせもあり曖昧な語でごまかすはめになる。上の詩の場合は実物は、かんぬき状のロックになっている差し錠(verrou)で、ピンのようなものを押し込んでおく(pousser/mettre)とロック、引く(tirer)と解除、開けるときはノブのようなものを回して(touner)開けるというタイプのものということになる。複数になっているが、用心深いことだ。

題名のBilletは通知、簡単なメモなどを記した短い手紙のことだが、使いの者に持たせて予告したのだろうか、あるいは昼間、通常の社交の場で会っているときにそっと握らせたものだろうか。

"sans atours"の atour は衣服、装飾品など身につけるものをひっくるめて指すが、こんなような文学作品くらいでしかお目にかからない。

"l'habit des Amours" の Amoursは大文字になっているから、愛の神、キューピッド、ギリシア神話のエロスを指す。だから本当は上のように「愛の衣」などと訳すと、「『O嬢の物語』を読む」でやっているように意地悪な眼で見ると、無教養と言われかねない。「エロスの衣裳」などとやれば少しは学がある風にはなるが、結局なんだかよく分からない。キューピッドの絵画表現を見てわかるように "l'habit des Amours" は、"sans atours"と同じことである。そんな面倒なことを盛り込まなければいけないなら、遊びの訳だから、いっそのことamourの「愛」という概念だけは残しておこうと字面訳。原文にない文句もちょっと密輸入。そんな乱暴なことはできない専門家の悩みを想像すると同情したくなる。




MSG: 61 on Mon 26 Jan 2004(CET) by 写原祐二
Subject: Comment to 閂

ご報告と感謝を兼ねましておそるおそる書込みさせていただきます。

まず無事にベルト・モリゾを全巻UPいたしました。本当に圧巻でした。ちょうど東京でマルモッタン・モネ・モリゾ展が開かれていて、参考になる方もいらしゃるでしょう。ありがとうございました。

僕は詩のほうもからきし駄目ですが、「閂」ときいて昔ルーヴルで見た確かフラゴナールの絵で、青年が恋人の部屋に入り込んで戸口を締め切ってしまう瞬間のシーンを思い出しました。あの絵の女性があわてている様子なのですが、恐がっているのか、喜んでいるのか、不思議な表情なのが気になったままです。


MSG: 62 on Mon 26 Jan 2004(CET) by かぐら川   Web Site
Subject: ベルト・モリゾ

ごぶさたしています。

写原さんがご紹介いただいたベルト・モリゾの記事というのは↓ですね。
http://members.at.infoseek.co.jp/yuutsu/morisot/morisot-0.html
とても、パソコンの画面上では読みきれませんので、プリントアウトしてゆっくり読ませていただきたいと思います。

そして展覧会というのは、
[パリ マルモッタン美術館展]
モネとモリゾ 日本初公開ルアール・コレクション
The Marmottan Monet Museum Exhibition Japan 2004
2004年1月27日(火)〜3月28日(日)
・ 東京都美術館
ですね。

来月、東京に行く折には、寄ってみたいと思いますが、先に[ヨハネス・イッテン ―造形芸術への道]が、東京国立近代美術館を予定にいれたので、この二つの展覧会を日を接して見るのは、「かなり!重い」・・・と、うれしく?悩んでいます。



MSG: 63 on Fri 30 Jan 2004(CET) by Autel
Subject: ちょっとさぼっている間に

書き込みをいただいて写原さん、かぐら川さんありがとうございます。

・写原さん

アーカイブ化の件ではお手数かけました。名探偵改め名編集長の手でタイトルやらリンクやらも追加されてずいぶん読みやすくなりました。

フラゴナールの「閂」、実は上の詩の記事を書いているうちに、これについて面白い論を読んだことがあるのを思い出したので次のネタにしようと思っていました。が、途中で別に書きたいことが出てきてそちらを優先しようと思っているうちに、こちらがまた書きかけのまま、ちょっと忙殺モードに入ってしまい、どちらも未アップになってしまっています。近々アップするつもりではいるので、懲りずにまた遊びにきてください。

・かぐら川さん

モリゾの件についてはこのura noteで書くタイミングがなくてそのままになっていたのですが、わざわざ紹介の労をとってくださってありがとうございます。文がえらく乱れているのでちょっと恥ずかしいのですが、興味を持っていただけければ幸です。

「めぐりあうことばたち」はほぼ毎日拝見しています。きまぐれな私のura noteと対極に毎日書き続けておられるその意志の強さにはいつも頭が下がります。




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